安倍晋三元首相の銃撃事件からおよそ2ヶ月。あちらの世界線では、安定の政権運営を続けている与党自民党が、こちらではかつてないほど揺れている。統一教会との関係、その実体が明らかになるにつれ、この数十年に執り行われた政治とは何だったのか?まるで、雲の切れ間から光が差すようにつまびらかになりつつある。ある人々にとって、銃声はともすれば福音だったのかもしれない。実際、山上容疑者の意図とは正確には異なり、暴力によって、革命が成し遂げつつあるかのようにも見える。世界各地で起きる紛争やその悲劇を垣間見ながら、暴力とは、現状変更を促すのに最も手っ取り早い手段だと目の当たりにしてしまったのである。「暴力は許されない」という厳然たる事実。それでも、メデイアで使われる「容疑者の暴力は断じて許せないのですが…」という枕詞は必要の無いものではなかろうか。なぜなら、安倍晋三氏が関与した数々の疑惑の一つに、銃撃事件の遠因が真実として存在し、山上容疑者がある意味で被害者でもあると、世間はすでに知っているのだから。しかし、建前だとわかっていても人は保険をかけておくことを止めることができない。誰からか怒られることは、この社会では恐ろしくコスパが悪いことだからだ。政治家のみならず、私達もそんな小さな嘘をつきながら、モヤモヤと生きながらえようとする。そんなふうに世界は回り続けている。

NETFLIXのドラマシリーズ、「ベター・コール・ソウル」が最終回を迎え、延べ14年に渡る、アルバカーキ・サーガが幕を閉じた。アルバカーキ・サーガとは、ピークTV史上の最高傑作と評される「ブレイキング・バッド」を起点に、アメリカ西部の街、アルバカーキを舞台にした一連のドラマ、映画シリーズの呼称である。このサーガが評価される理由はいくつにもまたがるが、一つには、時間軸が行き来する複雑な構成を持ちながら、論理的には破綻の無い、完璧なストーリーテリングを達成したことにある。さらには、撮影編集における圧巻の描写力を上げることができるだろう。とりわけ「ベター・コール・ソウル」は、構図、色彩、陰影、人物のサイズ、移動ショットの向き、スピード、編集のリズムとその全てに意味や意図の無いカットは一切無いと断言できるほど、精緻に練り上げられた驚くべき構造美を湛えている。さらに、無数の登場人物たちが絡み合うストーリーを見事に最終地へと収斂させ、ひいては伝統的かつ現代的なアメリカの神話を、この小さな街のナラティブによって成立させてしまったことに驚きを隠せない。

アルバカーキ・サーガの最後を飾る「ベター・コール・ソウル」はブレイキング・バッド終了の2年後、スピンオフシリーズとして2015年に始まった。ブレイキング・バッドでの過剰な道化師っぷりで印象を残した悪徳弁護士、ソウル・グッドマンが主人公となったのだ。正確に言えば、冴えない弁護士の卵である本名ジミー・マッギルが、ペルソナである悪徳弁護士「ソウル・グッドマン」になるまでの過程である前日譚と、ブレイキング・バッドでの時間を経た後日譚の両方が描かれることとなった。前日譚の構造としては、「タクシードライバー」や「ジョーカー」に似ているとも言えるだろう。これらの映画の主人公と同様に、ジミーは家族との関係や会社内での惨めな扱いにより、心に傷を負っている。そのため、「闇落ちしても、しかたないよね」と思わせる要素がある。しかし、視聴者は困惑してしまう。なぜなら、彼から攻撃される対象は、絶対的な悪などではなく、ちょっと嫌な奴ぐらいだからだ。その普通の人々の小さな虚栄心、自尊心、金銭欲などを逆手に取り、子どものイタズラのような謀略によって社会的信用を失墜させ、精神的にも追い詰めてゆく。彼はタクシードライバーのトラヴィスやジョーカーのように社会の闇を象徴し、大衆の共感を呼ぶアンチヒーローではない。社会や他者性というものが欠落しており、自己顕示欲を満たすためなら、常に間違った選択を意識的に行うことができる、超一流の詐欺師なのである。彼は他人の心の卑小さを見抜き、虚偽、詭弁によって、たやすく惑わせることができる人物として存在している。物語では、そんな彼を思い留まらせるためのタイミングが何度かあることが示唆されていた。しかし、愛する女性をも感化させ、巻き込み、破滅へと突き進んでしまうのだ。トラウマや育った家庭環境が理由であれ、そのように生きてきた人間は変わることができるのだろうか?もしくは変わらないのか?そんな問いかけが「ベター・コール・ソウル」では続けられてきた。その解答めいたものが、最終盤にまさに「福音」として提示される。

どこか宿命的で、フィクションが色褪せるほど劇的な展開を見せる現実の中で、圧倒的なクリエイティブの力による創作が今、私を侵食し、重なってゆく。

最後に一つだけ述べるならば、嘘は「優しい嘘」だけにしておきましょう。