最新記事][ログ一覧 2000.12 ←前][次→
批評とは tokihito
00/12/16 Sat. 04:29
最近、改めて、雑誌『10+1』(INAX出版)のNo.18から連載されている(現在No.22まで)青山真治の「映画の地理学」を読んでいるのですが、これがなかなか面白く、色々考えさせられます。
特に第4回目から話題にしている、「実感」ということをめぐる思索は、自分が個人的に彼ら(黒沢清や青山真治本人ら)の映画を見て朧げながら考えていたことであったので、注目しています。
(この件についてはまた後ほど取り上げるつもりでいます。)

その文章の中で、青山氏は、戦前の小林秀雄について触れていて、ちょっと気になったので、『新訂 小林秀雄全集 第1巻』(新潮社/1978)の「様々なる意匠」を今少しずつ読んでいるところです。
そこで、小林秀雄は、批評というものについて書いていて、個人的に色々思うところがあるわけです。(勉強不足で恥ずかしいのですが。)

いささか強引に自分の印象に残ったところをいくつか引用してみましょう。

「批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事ではない。批評とは竟に己の夢を懐疑的に語る事ではないのか!」(ボードレールの批評について述べたあとの言葉です。)

「最上の批評は常に最も個性的である。そして独断的といふ概念と個性的といふ概念とは異るのである。」

「・・・人は種々な真実を発見する事は出来るが、発見した真実をすべて所有する事は出来ない、ある人の大脳皮質には種々の真実が観念として棲息するであらうが、彼の全身を血球とともに循る真実は唯一つあるのみだといふ事である。」

「彼等(芸術家達:引用者注)の仕事は常に、種々の色彩、種々の陰翳を擁して豊富である。この豊富性の為に、私は、彼等の作品から思ふ所を抽象する事ができる、と言ふ事はまた何を抽象しても何物かが残るといふ事だ。この豊富性の裡を彷徨して、私は、その作家の思想を完全に了解したと信ずる、その途端、不思議な角度から、新しい思想の断片が私を見る。見られたが最後、断片はもはや断片ではない、忽ち拡大して、今了解した私の思想を呑んで了ふといふ事が起る。この彷徨は恰も解析によって己れの姿を捕へようとする彷徨に等しい。かうして私は、私の解析の目眩の末、傑作の豊富性の底を流れる、作者の宿命の主調低音をきくのである。この時私の騒然たる夢はやみ、私の心が私の言葉を語り始める、この時私は私の批評の可能を悟るのである。」

*漢字を一部改変。

「批評」ということについて改めて考えてみたいと思っている今日この頃です。
Calendar oui
00/12/16 Sat. 04:48
ボクが前回話題にしたTHE SEA AND CAKEのJAPAN TOURと吉祥寺であるSOLO NIGHT、このサイトのRecommendation Calendarで取り上げられていますね。

このような期待できるライブをどんどん紹介していって欲しいです。
喋りすぎについて K[URL]
00/12/16 Sat. 15:05
自分の作品がそのなかで意味をもつような〈場〉、文脈を、自ら開発し提示していくべきで、それこそが重要なのではないかということです。
自分もrinoさんに同感であって、自分の作品をとりまくコンテクストを自ら設定していくことにもっと積極的であっていいと思います。
村上隆、東浩樹などのパフォーマティヴな態度を積極的に持つ作家、批評家が出てきたことはそれなりの意味をもっていると感じます。しかしそのパフォーマティヴな態度が現状では脆弱なものの言語による武装のようにも見て取れ、作品と外部のインターフェイスの機能をもっていた言語は芸術のトートロジーの響きを増し、コンセプチャル・アートの持つ脆弱さと同一視されるようになってしまったように思います。
同様のことが多くの批評、多くの美術系BBSにも起こっていて、作品の内在的な強度とその作品が持つイターフェイスとなるチャンネル、コンテクストを論証していこうという態度が言語というコンスタティヴな機能を持つが上に起こる水掛け論やトートロジー、<l’art pour l’art>になってしまうという現状がある。
しかしそれでもなお言語は有用性を持っていると思います。刺激的な思考、論証は心を豊かにし、思考を柔軟にします。言語は有用性も危険も同時に孕み、それを使う人の裁量にかかってくるのですが、ここのBBSに限って言えば言語の生産的な恩恵を受けていると思うのでrinoさんのようなテクニカルタームをともなった話題であっても硬くならずにかえって柔軟に読めて楽しんでいます。
自分なんかは作品の内部にその文脈(自分の作品がそのなかで意味をもつような〈場〉、文脈)を示す、ということに今は興味があり、そこを目標としています。それを実行するにあたって大きな役割を占めるのが、多くの統一的でかつ脱構築的(脱言語的)な総体を感じ取ることで、つまるところ<たくさんの展覧会を見てまわる>ということです。
だからこのように展覧会レビューのためのBBSというのはたいへん楽しませてもらっています。
ひとつの作品、ひとつの展覧会というものはその作家独自の、他人では決して理解できない、しかい当人にとっては揺るがしがたい因果律(宇宙)を持っていて、それに触れ、それを良いと感じたと主張することだけでも重要だと思います。だからmikoさんの言う<作品をモノにおとしこんでいるという意図>や<より多くの人がこの場フローしていくことを私も願っています>ということに共感します。
自分は知識もテクニカルタームも豊富なわけではないので面白かった展覧会を紹介するだけでその内部に関する論考は不十分ですがそれでも意味があると思って書き込ませてもらっています。そんだけです。
dumb type/memorandom K[URL]
00/12/16 Sat. 15:43
今更ながらメモランダム。
16日今日終幕を迎えるメモランダム、自分は14日に行ってきました。
感動。残念ながら俺は「OR」はおろかダムタイプの公演、演劇、パフォーマンス、一切の舞台芸術というものを見ておらず(うちの大学で恒例のパフォーマンスイヴェントと「ph」のビデオを見たくらいだ)これが初めての舞台芸術との遭遇だったので比較対象がありません。なのでただただ感動というしかない。
周到に計算された演出とパフォーマンスの技術、グループ一人一人の記憶に対する考察を散りばめ記憶という不確かなものの一端を大きな視野で掴んで実感にしていくまさにメモ/ランダムな構成、既知に富んだアイディアの数々、そしてちょっとのユーモア、すべてが感動を与えていた。
暗い舞台の中、映像をバックに走り抜けるパフォーマー。それを記憶し、データーとして取り込むシステム。そのシステムはパフォーマーの影を生み出し、独立し、新たな幻影を生み出す。
エネルギーを持った実体なのかデータなのかそれさえも区別がつかなくなったとき、もうすでに自分の意識は舞台に埋没していたと思う。
ストロボに照らし出されまた消える身体は、映画がエネルギーを持たない画像の集積がエネルギーの表象として見て取れたのに対し、確実なエネルギーの総体であるパフォーマーがエネルギーを持たない画像、データに解体されていく感覚を持たされた。
4つの異なる時間軸が、殺されるという一瞬に収縮していく演出もまた感動的であった。そしてエンディングでのダンス。エネルギーでもデータでもないその動きの連続とは何だろう?ふしぎな感覚が芽生えているのを感じました。
始めまして I
00/12/16 Sat. 19:55
こんにちは。クールパさんの所から流れてきたイコンと申します。
不束者ですが、
どうぞよろしくお願いします。
そういえば、ダムタイプのチケット、取るのをすっかり忘れてましたね。
どうしよう、大阪公演今から取れるかな・・・。
作品をとりまくコンテクストの問題
そもそも作品の価値というのはどこに現れるんでしょうね。
それは作品そのものに内在されているのか、それとも流通して初めて現れるのか、
どっちなんでしょうか。
まあ どっちだと言うんじゃなくて、それを批判的に継承しつつ、
価値は内在的に形成されるが、しかしそれは流通して初めて立ち現れる、
と言うべきなんでしょう。
でも、「内在的な価値の形成」と「流通」って言う二つの間には決定的な断絶があって、
作品がそこを上手く飛び越えられるかどうかは「賭け」と言えるんじゃ
ないでしょうか。
それで、作品をとりまくコンテクストの問題をどう考えるかって言うのは、
この賭けに対してどう言った距離をとるか考えるって言う事ですよね。

言ってみれば、モダンは「内在的な価値」のみを重視し、真・善・美の絶対的審判者と
言うイデア的な普遍的虚構でもって、その賭け自体を無視したのですね。

逆に、ポストモダンは普遍性を廃して、「買う―買われる」とか、「見る―見られる」と
言った、相関的な場での価値生成を重視しますよね。でも、こちらは「流通」のみを
重視しすぎる傾向があります。流通を重視するあまり、価値の生成のあらゆる段階において、「見られる」事を余りに気にするわけですよ。つまり、もはやポストモダンは作品の発する目線と、それを見るものの目線の交錯が、分散、内在しあいながら、多様な層を形作ると言う緊張を持った、「見る―見られる」の関係ではなくて、作品を見る者、つまり
価値判断者の集合が全てを決めると言う、どうしようもない微笑み合いの中にある
ふわふわとした「見られる、見られる」と言う関係でしかない訳です。

これもまた、虚構に過ぎないし、内在的な価値の形成」と「流通」の間に横たわる
賭けについても、「流通」で持って、その賭けを掛け金無しでやり過ごしてしまおうと
する訳ですよ。

内在的価値はある種、子宮的な状況の中で形成されざるを得ない。ただし、作品は、
内在的な価値が形成され、母の肉体の一部としてのリミットがくる、つまり出産期が迫れば、母と子の融合状態を離れて、一個の人間として、成立するために、出産と言う死を架した
危機「賭け」を乗り越えなければならない。そうして、母と切り離され、相関的な場に
「見る―見られる」という関係を作り出せて始めて一人の人間になる訳でしょう。
内在的価値の形成が不完全な場合は容赦なく死産と言う結果がまっている訳ですし、
死産した子を皆で「元気な赤ちゃんね」と言ってみた所で、王様の耳はロバの耳、じゃ
あるまいし、全くの無駄でしょう。
まあ そう言った賭け無しに何とかしようと言うのも、それは虚構に基づく
空虚な戯れや幻想であって、どだい無理な話なんですね。

そう言うことを考えると、モダンにしてもポストモダン(と今呼ばれているもの)にしても、余りにも態度がナイーブだとしかいえないし、安易に作品をとりまくコンテクストが
重要なんだとは言いにくいでしょう。
結局、死を架しながらも突っ走るしかない。またそれを、量的な配分の問題ではなくて、
絶えざる不断の態度として常に示しつづけるしか結局無いんじゃないでしょうか。

そして、そう言ったある種の極限に立って始めて、パフォーマンスであるとか、アクティブであるとか言うのが意味を持ってくるのだろうし、逆にそうでなければそれは自己弁護や戯れ、単なる「たちの悪いリップサービス」でしかないように思います。

どうなんでしょう。
作り手が思うこと miko
00/12/16 Sat. 22:19
 今度は作品の価値についての議論があるみたいですね。

 急に素朴な言葉になってしまうのですが、自分が作品を展示する際に
考えることを一つ。以前、読むことを拒絶するようなものを作りたいと
書いた気がするんですが。私にとっては、自分の作品と観客との関係の
理想はいたってシンプルで、「好きか嫌いか」その判断さえして頂けれ
ば幸せなんです。もっと言えば、作っている私も幸せで、見たお客さん
もできれば幸せであって欲しい(好きな人が多いということ。)と思っ
ています。
 
 ですから、当然パッと見が大事なんですよね。技術がもっと上がれば、
意図を忠実に作品の中に反映することができるかもしれません。でもそれ
は、読みを強要する、もしくは読める人だけが楽しめるようになってし
まう、それでは私にとっては閉塞感しかなくなってしまうんです。勿論、
学祭のお客さんですら、私の写真を読んでいました。なんで、この背景
なんだろうかとか。お客さんが自分の作品を読むことは何も思いません。
勿論、自分の中にはあまり意図はないんですけど。ただ、覇権的な読みが
成立してしまうのが嫌なんです。だから、最初からあまり意図を与えて
しまうような題材は選ばないです。戦争写真なんかは、特に私は苦手です。
見る側、作品ともに背景に余計なコンテクストが見え隠れしますからね。
あと、単純に戦争写真をみても私は幸せにはなれないし。

 ただ、「作品」という言葉自体から、意味のつまった閉じた箱みたいな
イメージを私は受けてしまうので、普段はいつも「モノ作り」だと自分は
思っています。だから、理想としては、アウトプットを作品と呼ぶとして、
作品があらゆる読みに対して開示されているようなものだと嬉しいと感じ
ますね。でも、このスタンスは行きつくところは、「芸術」という<場>の
外へ出てしまうんでしょうけど。まあ、実際最近の私は芸術作品からは逃走
していると思うし。

 ここだから書いてしまうけど、こう喋っている私に自己嫌悪です。
読まれることに対して否定的なのに、いかようにも読んで下さいという
一つの読みを喋ってるのはパラドックスだから。しかも、まとまって
ないし。一方で、ここに常時参加している間に、言葉が洗練されてしまう
のもすごい不安です。喋りたくなりそうだから。(笑)
覇権的な読みと戦争写真 I
00/12/17 Sun. 16:03
そうですね・・・。仰るとおり、
今や戦争写真は覇権的な読みを生み出す事しか出来なくなってしまったように思います。
しかし、本来の戦争写真の役割と言うのは、そう言ったものとは逆であると思うんです。

戦争とは、ステレオタイプ(紋きり型)の投げ合いと言う側面を持っていますよね。
しかも、それは外側だけではなくて、内側に向かってもなされる訳です。
例えば、第二次世界大戦時に、日本は内側には、一翼玉砕、神国日本と言った
ステレオタイプを押し付け、外側には鬼畜米英と言ったステレオタイプを押し付けていた。
また、そう言った行動は、日本だけでなく、アメリカでもあり、こちらはこちらで、
内には我々は世界の不正を許さない、世界の平和を守るんだと言って、外にはアジアの
黄色い猿が、西洋列強の植民地を侵略していると言っていた訳です。

このようなステレオタイプと言うのは、あくまで虚構に過ぎないですよね。しかし、
国家権力は、そう言ったステレオタイプの押し付けによって、国民の意識や認識を
支配下におさめてしまう。戦争と言うのは、その極限の姿が立ち現れる瞬間であり、
そう言った虚構の力があらゆる場所で最も大きくなる瞬間でもあると言えると思います。

そう言った虚構の全面化に対して、本来戦争写真と言うものは、写真の持つ即物性で
持って、虚構の下に埋もれた現実の実際の姿を抜き差しならない感覚の元に
浮び表せ、それがステレオタイプである事を暴露する役割を負っていたと思うんです。

そのような極限の虚構を暴くと言う事は、単にそれだけに留まらず、意識や認識の持つ
権力の問題にまで切り込んでいく可能性を持っていたと言う事であって、そう言う意味で、
写真は歴史を語ると言う大役を担う事が出来たとも言えると思います。

こういった戦争写真の持つ力は、ベトナム戦争では大きな役割を担う事になりますね。
しかし、湾岸戦争では、写真のみならず、視覚全般が虚構的になりつつあると言うことを
感じられずにはいられなかった。死人が写らない戦争映像と、ゲーム画面のような空爆映像
と言う事に、それが極的に現れていると思います。

そして、さらにこれがボスニア紛争になると、戦争写真は完全に覇権的な読みを覆すと
言う事はなくなって、逆にそう言った読みを促進する末端・尖兵となってしまう。つまり、湾岸戦争ではその歴史に対する役割が故に排除されていた存在が、今度はステレオタイプの尖兵として戦場をを走り回ると言う、最悪の状況が展開される事になる訳です。つまり、セルビア
だけがとにかく悪いんだと言うステレオタイプが世界の世論、特にアメリカの世論
だったのですが、そう言うものを戦争写真は国家の言うステレオタイプな人道主義に
乗る形で、積極的に援護・擁護していく訳ですね。実際には、ボスニアに対してだけでなく、ボスニア側でもエスニッククレンジング、民族浄化がなされていた訳ですよ。しかし、
戦争写真家達は、ボスニア側も民族浄化を行っていると予想できたにもかかわらず、
かわいそうなボスニア、悪いセルビアと言う、アメリカの言うステレオタイプを
擁護するような写真ばかりを撮ってしまったのですね。

もはや戦争写真はステレオタイプの使い走りにまで堕落してしまった。
もはや戦争写真は死んだともいえるでしょう。しかし、これは、単に戦争写真が
死んだと言うだけではなくて、写真の歴史を語ると言う側面が死んでしまったと
言っても言い過ぎではないのではないでしょうか。

戦争写真は覇権的な読みを押し付けるから嫌だというのは私も正しいと思います。
ただ、単にそれは、それだけで終わらせてしまって良い問題ではないとい思います。
そして、その死は、写真と言うもの自体にさえ覆い被さってきているようにも思います。
様々な写真があり、様々な撮り方があるのでしょうが、こう言った危機そのものに
触れることなく、撮る、と言う事が、許される状況がもしも全面化していると言うの
ならば、そのような状況に対して少なからず危険を感じずにはいられません。
写真、意味のない rino
00/12/17 Sun. 22:00
はじめまして。新しい人につぎつぎに書き込んでいただけるのは嬉しい限りです。などといまさら言うのも無用に感じられるほど自然に対話がすすんでいるようすね。

さてそれで、とはいえコソボで報道写真をとっていたような人たちは命がけでやっていたと思いますよ。しかしそうして撮られた写真がどのように“流通”するかというのはほとんどマス・メディアの問題ですね。ただでさえ表紙がボスニアの写真だったりするとその号は売行きが落ちるから雑誌にもなかなか載らないとか。
写真の真実性の凋落というのは、逆に言えば写真に真実らしさという意味を読み込むところから来ているのでしょう。

Iさんの指摘するような形で写真の意味が死んだ後で、では再び意味を復興するのでもないとすればどのような写真をとるかというのが、mikoさんのような人が投げ出されている地平なんでしょうね。
「雲から抵抗へ」 rino
00/12/17 Sun. 22:23
レポートのほうも地道にぢみぢみやっておきます。
アテネフランセで上映されたストローブ−ユイレの「雲から抵抗へ」を見ました。

この作品は、イタリアの作家チェーザレ・パヴェーゼの『レウコとの対話』および『月とかがり火』を原作にしてます。

この映画を見るのは2度目で、以前に見たときには、同じ頃に見たベニーニの「ライフ・イズ・ビューティフル」やパゾリーニの「ソドムの市」「豚小屋」、ダラピッコラのオペラ「囚われ人」などと並んで、イタリアにおけるファシズム期の記憶の独特な複雑さを印象づけられた覚えがあります。
特に『月とかがり火』をもとにした部分は、ファシスト党員、ロマ、ローマ・カトリック教会、王党派、共産党、レジスタンスなどなど思想、階級、人種(そしてジェンダー)が入り乱れて人々のあいだに軋轢を残したその記憶を、アメリカから帰郷した一人の男の回想を通して絞り出すというものでした。
しかもそれが、6つのエピソードから成るギリシアの神話的な対話編みたいなものにいきなり接続されていて、まったく独特な映画になっています。

今回あらためて見て驚いたのは、自分が登場人物の顔つきを全く忘れていたことです。作品の提示する概念だけはスキッと頭に入っているのに、俳優の顔がなぜか印象に残っていない。考えてみるとストローブ−ユイレの他の作品の記憶もそうです。
傷を残さずに患部だけを摘出するレーザー・メスのように、見終わったあとにはただ抽象的な観念だけが残されている。ストローブ−ユイレ映画は、私にとってそんな不思議な映画です。
蓮實氏講演情報 TEE
00/12/17 Sun. 23:13
フライヤーを整理していたら、下記の情報が目に入りました。

赤坂の国際交流基金フォーラムで、現在、合同アジア映画祭というのをやっていて、16日からはインド映画伝説の巨匠と言われるグル・ダット監督の特集をしています(この監督について自分は全く何も知りません)。
そしてこの特集の特別企画として、蓮實重彦氏が「グル・ダットの全貌に向けて」という講演を12月23日17時30分から行うみたいです(15時からの『55年夫妻』上映後)。
詳しくは、以下のページで確認して下さい。
http://www.jpf.go.jp/j/others_j/whats_j/0011/11-03.html
戦争写真の死とその使命の継承 I
00/12/18 Mon. 00:02
彼らも命がけだったのだから・・・・
いい加減にやってるとは言いませんよ。ただ、命がけでやればどうにかなると言うのは
大変美しいけれども、ある意味美しすぎる話ではないでしょうか。

しかし確かに、ユーゴ関係の写真が雑誌の表紙を飾ると売上が落ちる、と言うのは
実際そうだったみたいですね。
それでもこれは写真家の使命だと言って、頑張って命がけでゲットーの写真を
撮ってきて、業界もそう言う活動を評価して、賞を授与する。
しかし、そう言った行動さえも今現在から見れば国家のステレオタイプを容認して
しまったのではないかと言う深い苦悩を写真家に投げかけている訳ですよ。

これはもはや、マスコミであるとか、命がけであるとか言った議論さえも飛び越えて
しまっている、深刻な事態のあらわれなのではないでしょうか。

そう言う部分も加味した上での意識形成の流通を考えた時、一体一人の表現者が
どういう態度でのぞんでいくべきか、と言うのは大変難しいと思います。

権力と言うものは、意識形成の流通経路をステレオタイプに埋め尽くそうと
するものですが、現在の国家や権力と言うのは、細分化・分散化・内在化して
いるのですから、権力そのものというものが露骨に表れては来ない。そう言う中で、もはや
下手をすると、命がけでやった事さえも逆手に取られてしまうという可能性がある、
本当にこれは危機的な事態だと思います。


ただ、そう言う状況にあっても、意識や認識のステレオタイプを切り裂いていく、
そして、そう言う意味で「意味の罠」に陥ることなく、真に歴史を紡いで行くと言う
戦争写真(or写真全般)の使命は放逐されて良い訳ではなく、いかに状況が
困難であったとしても、それは「継承」されていかなくてはならない事は確かだと
思います。

それで、私はricoさんの仰る「地平」をそんな風に手前味噌に(汗)
理解したんですけれども、もしもそう言う地平を志向し、投げかけていけるのなら、
それは本当に素晴らしい、と思います。

まあ後、十数日で今世紀も終わるのだし、ちょっとそう言った継承の話でも・・・
と思ったイコンでした。
写真のプロブレマティック ふくしま [Mail]
00/12/18 Mon. 19:36
「長い書き込みは読みたくなくなる」と今日友人に指摘されたのでできるだけ短く。

1・戦争写真は美しいか?
 多木浩二が『太陽』に書いていたが(誰でも思い付くことだが、そして僕が以前ここに書いたが)、写真が普及するとそれは「記録」するものの地位を独占するようになった。今日、戦争においてもその特権性は変わらない。一方で、写真は一つのメディアとして「芸術」に参入し始めた。近代の芸術鑑賞は作品の「美しさ」を判断する際他の関心は一時的にないものとするように要求する、というカントが正しいとすれば、また戦争写真・報道写真が「記録」ないしportrayingの機能を担うものであるとすれば、それは美しいか否かを問う対象ではない。おそらく「芸術」ないしdepictionとしての写真には、下で言及するような写真の「記録」能力を吟味・批判する役割も課されているだろう。

2・戦争写真はステレオタイプ的か?
 概ねはそう言えると思うが、ベンヤミンも指摘するように写真の視覚的無意識は精神分析の欲動的無意識とパラレルで、写真には必ず明示的なメッセージからもれる余計な「もの」が入り込んでいる。被写体選択にかかる先入見があるとしても、また写真の解釈にかかる(キャプションに方向づけられたりする)先入見があるとしても、「細部」は写真に生き残りうるだろう。ジジェクがボスニアについて、報道は悲惨や窮乏の側面ばかりを取り上げるが、実際行われている「普通の生活」は一切無視されていた、と指摘していた。が、数カ月前、僕は三宅島で火山灰処理をするブルトーザーの映像を見たが、運転手が吸っているタバコの火はとても印象的だった。おそらくそのような明示的な意味(「意図された意味」と僕は言いたいが)を逃れた「細部」(バルトなら「プンクトゥム」と呼ぶだろう)にこそ、ステレオタイプを裏切る何がしかの「現実」が示される可能性があるのではないか。
細部と言うのは面白いですね I
00/12/19 Tue. 01:37
大変興味深い御話ですね。
最近「映画史」を見たばかりなので、それと重ね合わせるようにして読みました。それで、

写真は「記録」するものとしての役割を独占した、それは同時に歴史を語ると言う大役を担う
事でもあった。そこでは、「歴史の(為の)写真」が生成される事になる。しかし、そう言った
写真の持つ、収まりの良すぎる明示性に対して、「写真の(為の)歴史」と言うものを倒置し、
明示性の元で押しつぶされていた記憶の細部を幽霊の様に立ち上らせ、「歴史の(為の)写真」における「記録」能力を吟味・批判する事は重要だ。そのような細部を写真の記録性は
精神分析の欲動的無意識とパラレルな存在としての視覚的無意識と言う形で残してしまう。

そして、「芸術」としての写真にはそう言った「写真の(為の)歴史」の生成に関わる側面も
問われるだろうし、それは言い換えれば、「芸術」としての写真には「歴史の(為の)写真」に
おける「記録」能力の吟味・批判と言う側面も必要だと言う事でもあるだろう。

と言う風な事を仰られているのかな、とこれもまた手前味噌に(汗)思ったりしました。

ただ、細部とは、あくまで意味からこぼれ落ちるものであって、細部のみを
撮る事はできないし、それが無意識的であるからには、そう言った知覚し得ないものを、
「いや、細部は知覚し得ない存在としてあるのだ」と言う風に、否定神学的、「居ない神を信じる」と言うような予定調和に落ち着けてしまう事は避けなければならないと思います。だから、
「写真には必ず明示的なメッセージからもれる余計な「もの」が入り込んでいる」とまで言って
しまう事は、文化的なラディカルさの為のジェスチャーとしては有効でしょうが、反面、
無意識という領域を丸ごと否定神学へと引っ張り込んでいく危険があるように思います。
そここそ、それこそ見込みのまったくつかない、命がけの賭け、命がけの跳躍なんであって、
そうでなければ、細部と言ってみたところで、単なる手触りの良いものに過ぎなくなって
しまうのではないでしょうか。

しかし、例として仰っておられる、「三宅島で火山灰処理をする運転手が吸っているタバコの火」
と言ったような、「明示的な意味からこぼれ落ちた、しかも、それは一瞬かもしれないが
ある種の即物的と言えるような輝きを持った細部」にステレオタイプを切り裂く「現実」を
見出すのなら、モダンがリミットを迎え、更にポストモダンがこれほどまで語り尽くされた後で、あえて語るべきモダンとも言うべき一つの可能性を垣間見る事ができるのかもしれませんね。
どこでCDを買うか tokihito
00/12/19 Tue. 02:48
極めて実用的な情報として。
(このような情報を掲載しても大丈夫なのでしょうか・・・)

CDの値段というのは、当然のことながら輸入盤の場合、ショップによってかなり値段が変わってきます。変わると言ってもせいぜい数百円の範囲なので、気にしない方は気にしないでしょうが、何枚も購入する時など、その差額はちょっと無視できないと思います。

例えば、先日、diskunionに行ったのですが、そこで池田良司の新作『matrix』(rinoさんがこの掲示板で紹介されていました)が2190円で販売されていました。この値段は今まで見た中で一番安いものだったと思います。
個人的によく利用しているTOWER RECORDSではたしか2790円でした。
表参道のアート・ショップNADiff(ここのCDコーナーは品揃え豊富な現代音楽系のCDを他店より基本的に安く販売していると思います。また、個性的なセレクションにも定評あり。ここに来れば、何か面白い音楽に出会えます。)では、もう少し安い値段だった筈です。(2400円ぐらいだったか?)

このように、輸入盤の値段はショップによってけっこう変わってきますので、そのことをちょっと頭に入れておけば、賢い買い物ができるのではないのでしょうか?

個人的には、たしかに値段も大切ですが、気軽に試聴のできる/品揃えが豊富で捜しやすい/お薦めのコメントが信用できる/店内の雰囲気が良い/店長が親切など様々な要素を考慮に入れて、複数のショップをうまく使いこなしているというところでしょうか。
『EUREKA』2000プレミアムナイト #2 TEE
00/12/19 Tue. 03:26
[前回からの続き]
少々間が空いてしまって本当に申し訳ないです。いったい、どれくらいの方が覚えておられることやら・・・。
まあ、とにかく、続きです、はい。
(ますます記憶が不確かになっているのでその辺りはどうか御勘弁を。)

ステージには、司会の方の紹介で、青山真治監督、田村正毅キャメラマン、俳優の光石研、斉藤陽一郎の各氏が登場。男ばっかりだ。

と、思いきや、なんと、『EUREKA』で兄妹役を演じられた宮崎将、宮崎あおい兄妹(現実でも)が花束とペットボトル(監督らに渡すものです)を持って登場されたのです。これには、さすがにちょっとびっくり。おふたりとも未成年なのだから、この時間帯はちょっとまずいだろうと余計な心配をしてしまいました。
しかし、あおいさんは髪にポップなパーマをかけておられる元気のいい女の子で、(見た後だから言うのですが)映画の役とのギャップに少々驚きました。(まあ、当たり前なのですがね。)いや、しかし、ほんと実に若々しくて、とてもかわいらしかったです、うん。いいですね、ほんとに。お兄さんはスーツを着ておられました。おふたりともとても緊張しておられるようで、初々しいコメント(「良い映画なので、最後まで見て下さいね。」とかそういう感じだった筈です・・・)を残されて、すぐに会場をあとにされました。まあ、未成年ですからね。でも、宮崎兄妹の御登場はやっぱりその場の雰囲気を和ませ、華やかにしたのでした。

[さらに続く・・・]

*今回は本当に内容がなくてすいません。まあ、もうちょっと付き合って頂けたらと思います。
学校にいく前の ふくしま [Mail]
00/12/19 Tue. 09:48
軽い自注です。

写真には必ず明示的なメッセージからもれる余計な「もの」が入り込んでいる。

というのは、シャッターを切る瞬間、写真家は、何が写るかについて全知であるわけではないということです。

被写体選択にかかる先入見があるとしても、また写真の解釈にかかる(キャプションに方向づけられたりする)先入見があるとしても、「細部」は写真に生き残りうるだろう。

生き残り「うる」、残る「可能性がないわけではない」、ということが重要で、確かにそんなものばかり撮れるわけじゃないですよね。ただ僕は、以前ここでも話題になったカルティエ=ブレッソンなどの写真において、その可能性の条件を検討することはできるんじゃないかと思います。
一言 miko
00/12/19 Tue. 13:22
> シャッターを切る瞬間、写真家は、何が写るかについて全知であるわけではないということです。

ここの議論であったこぼれおちる「細部」という概念に関しては、ほとんど撮り手は意識したこと
がないのではと思います。あと、一方でファインダーから入ってくる視覚情報という意味に限った
場合、きっと普通の人が思っているよりずっと写真家は細かい情報まで意識していると思います。
優秀な写真家であればあるほど。
『気狂いピエロ』を見て寒風の吹き荒ぶ中咆哮する #1 TEE
00/12/20 Wed. 01:57
とにかく急に『気狂いピエロ』を見たいという欲求が俺の中にふつふつと沸き上がり、皆の制止を振り切って、レイトショーが行われているシネ・リーブル池袋へ向かった。
息を切らせて映画館に着いてみれば、既に上映は始まっている模様。それでも構いはしない、といささか興奮して(もはや常人ではない)、目を白黒させる受付の方に料金を渡し、暗闇の中へ。人がいない。10人もいない。いいじゃないか。それでもう十分だ。
画面は、ジャン=ポール・ベルモンドが、浴槽の中で子供に向かって本(エリ・フォールの『絵画史』)を読んでいるシーン。いったい何度見たことだろう。俺にしてはいささか感傷的に当時のことを思い出してみようとしたが、ほとんど何も覚えていないことに気付いて、ほんの少しだけ愕然とする。O.K. 覚えてなくても、それは大した問題じゃない。現在、現在しかない。

そうこうしているうちに、アンナ・カリーナの姿を捉える。
アンナ・アンナ・アンナ・アンナ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ベルモンドがサミュエル・フラーと通訳を介して会話をする。
「映画とは何か?」
「映画は戦場のようなものだ!」
そうなのだ。もう気にしている余裕なんてありはしないのだ!

フィルムは傷付いている。音楽が、声が、音が、時々軋み、歪む。
大丈夫。全く問題ではない。

<<たぶん僕は立ったまま夢を見ている>>(アラゴン)

[次回へ続く(?)]

*『気狂いピエロ』はシネ・リーブル池袋で12月22日(金)まで上映。レイトショー、20時50分から。1200円。
蛇足だとは思いますが I
00/12/21 Thu. 16:56
シャッターを切る瞬間、写真家は、何が写るかについて全知であるわけではないということです。


そう言う意味で仰られるなら、写真家は全知でしょう。
また、全知で無ければならないでしょう。
シャッターを切る瞬間と言うような段階における細部とは、単に言葉通りの
細部でしかないのではないでしょうか。
細部と言う単語が指し示しているのは、あくまで無意識の問題であって、それは
情報や視覚が細かいとか細かくないとか言う問題ではないでしょう。
そもそも、全知で無いから無意識が生まれるのではない。
無意識と言うのは、あらゆる認識の外側にあるからこそ無意識なんであって、
全知であるとか、無いとか言う段階で語られるのは、意識の問題でしかありえないでしょう。
だから、そう言った意識の問題で喋るならば、
「視覚情報という意味に限った(意識の問題に限定た)場合、優秀な写真家であればあるほど細かい情報まで意識していると思います。」
と言うべきであるし、それは当然だと思いますね。
しかし、そう言った意識を全知であると言い切れるぐらいにまで突き進めたとき、
その極限において、逆に完璧なまでに全知であるからこそ、一瞬、微細な違和感として
こぼれ落ちる「何か」としかいえないものがあって、それこそが無意識の
問題なのではないでしょうか。だから、そう言った細部に賭けると言うのは、あまりにも危険な
命がけの賭け(逃走・闘走)でしかありえないし、そうで無ければ予定調和な弁証法や
否定神学でしかないのでしょう。

無意識、と言う事を語りながら、「細部」と言うのならば、全知とも言うべき極限状態に
おいてこぼれ落ちる微細な「何か」を指して、「細部」と言うべきなのだと思います。
そう言った意味において、良くも悪くもその試金石であった
シュールレアリズムを見、また、カルティエ・ブレッソンを見るというならば、それは
面白い試みになるのかもしれませんね。
浅田彰・椹木野衣対談「新世紀への出発点」 S
00/12/21 Thu. 16:58
はじめまして、K氏、I氏にこのサイトを紹介した者です。
時事的なイヴェントのレポートではないんですが、
上記の対談が『映画の世紀末』『20世紀文化の臨界』刊行記念として
7月14日付の「週刊読書人」に掲載されていました。
会話のリズムを乱してしまうようですが、面白いところも多いので引用します。

*以下、投稿者の希望により削除しました。
PS(追加) シャッターを切る瞬間 I
00/12/21 Thu. 17:45
PS
シャッターを切る瞬間、写真家は、確信的な全知を持たねばならない。そうでなければ偶然主義や数学の統計(写真家のとるべき責任を偶然や数学に任せて責任から
逃げる。果たして唯一の現実から逃げて、一体どこに
逃げ込むつもりなのだろう?)に陥るだけでしょう。
しかし、まさにその瞬間、
全知であるからこそ、零れ落ちる部分が
あるのかもしれませんね。
(ある種、フォーサイスが何故あれほどまでに完璧に
踊るのか、と言うのもそう言う理由からでしょう)
続き S
00/12/21 Thu. 17:45
*投稿者の希望により削除しました。
興味深く拝見しました tokihito
00/12/22 Fri. 01:09
Sさん、はじめまして。

浅田・椹木対談、興味深く拝見しました。
議論の流れも大切ですが、このような参照となるところの多いものはどんどん紹介して頂けると、色々役に立ちますし、有り難いです。
これからもどうかよろしくお願い致します。

ちょっと話はずれてしまいますが・・・・・

それにしても、村上隆氏らが「スーパー・フラット」というコンテクストを形成し、攻めていっている現在の状況については、皆さんどのように考えておられますか?

個人的には、戦略としてそこまで徹底してやるのは確かに必要だと思うのですが、何というかイマイチ違和感があるのです。(私が未だに古臭い人間だからでしょうか?)

岡崎さんのやられている仕事には注目しています。
面白い方ですよね。

椹木さんの「スーパーフラットな状態を前提としてそこに亀裂を入れられるとしたら何かということを考えていかなければならない」という話はよくわかります。

それにやっぱり今面白いのは「音楽」です。
凄い人たちがどんどん出てきているし。
友人も「音楽を巡る状況は劇的に変化している。今、音楽をやらないやつはバカだ。」とまで言ってました。

最後に行き着くのが「小説を書く」ことですか。
う〜ん・・・・・・・・・・・・・・
(untitled) I
00/12/22 Fri. 02:59
面白い対談ですね。しかし、ちょっと気になるところが
あったので、ちょっと言葉遊びをしてみました。

{A}「むしろスーパーフラットな状態を前提として、
そこに亀裂を入れられるとしたら何かということを考えていかなければいけない」

と言うのは大変理解できます。そこに繋げて

{B}「つまり、結局は新たにそういう特異な
存在が現れるかどうかが状況を変えると思うんです。」

とすると、なるほどそのとおりでしょう。しかし、それに

{C}「(そう言う状況の中で、)実際、「「古い形の(フラットな)」」小説や映画が滅びたって
問題ないと思いますね。すでに十分にあるんだから。(それでは特異点とはいえないから)」
とつなげるか、

{D}「(そう言う状況の中で、)実際、ある程度才能があって技術もセンスもあれば、
今の時代だったら
どのジャンルを選んでも(状況はフラットなんだから)
成功できると思うんです。だったら、やっぱり「「今なら」」音楽をやると思いますよ。」

とつなげるかは大きな違いでしょう。

そして、最後に最初の項をつなげると…

{Aダッシュ}「(と言ったような事を考えながら)むしろスーパーフラットな状態を
前提として、そこに亀裂を入れられるとしたら何かということを考えていかなければいけない」

まあ こんな遊びは意味が無い…鼻で笑って
破り捨ててしまえば良いようなものです。しかし、
まったく素通りするには何かが違うようにも感じます。

〜言葉遊び図〜

           →C→
A→ →B→  (C or D)  →Aダッシュ 
           →D→

・・・と言う風に、言葉遊びをして、それが多分に
恣意的なものであったにもかかわらず、
この絶対的なニュアンスの差に驚きました。
びっくりです。
TORTOISE/STANDARDS oui
00/12/22 Fri. 03:47
ついにTORTOISEの新作『STANDARDS』が2001年1月1日(!)、日本先行発売されます。([TKCB-72059]TOKUMA JAPAN COMMUNICATIONS/Thrill Jockey/ボーナストラック2曲収録!/*欧米発売は2月20日とのこと)

前作『TNT』からはや約3年も経ってしまったのですね。最近のシカゴ勢の充実ぶり(THE SEA AND CAKE/TOWN AND COUNTRY/Brokeback/ISOTOPE 217[以上のものは全てThrill Jockeyから/日本盤はTOKUMA JAPAN COMMUNICATIONSから]など)は本当に素晴しいもので、そのような文脈の上でも、この新作は非常に楽しみですね。今回のものは「デジタルから再びアナログ・レコーディングに立ち返った、パンク・スピリット溢れるポスト・ロック・アルバム」となっているらしいですが、どうなんでしょうか。とにかく早く耳にしたいです。

関連記事としましては、自分が確認した限りでは、ミュージック・マガジン 2001
・1月号の「トータス 『TNT』から『スタンダーズ』への変化(あるいは連続性)を問う」や、Sound & Recording Magazine 2001・1月号(ジョン・マッケンタイアが表紙!)のマッケンタイアのスタジオ(SOMA)訪問などがあります。
トン・ゼーの新作 oui
00/12/22 Fri. 04:01
この前ふらりとレコード・ショップに立ち寄ったら、Egberto Gismontiの処女作(1969)があったので思わず買ってしまったのですが、そこの棚(BRAZIL MUSIC)にはトン・ゼーの旧譜の再発(2枚を1CDにカップリングしたもの等)が何枚か置いてありました。試聴してみたのですが、これが面白い。
現在ではたしか60歳を超える年齢だと聞きましたが、噂によると近々発売される(発売された?)新作はさらに凄いことになっているようです。楽しみですね。
クリスマス・イブ T
00/12/24 Sun. 02:40
2000年も残りあと1週間となりました。
本当に早いものですね。

そこでこの1年間で印象に残ったことを何でも良いですから、この掲示板に書き込んで頂けたらと思います。今年〜が面白かった、〜が気になった、〜のことばかり考えていた・・・等どんなことでも結構ですので、気軽にお願い致します。

この掲示板はあるひとつの備忘録でもあると思うのです。日々の中で自分の中に引っ掛かっててきた、ちょっとしたことをここに書き記すという作業を行うことはあなたに何かを齎すかもしれないし、その文章を目にした誰かに何かを気付かせるきっかけを与えるかもしれないのです。

何かと情報量が多い今日、ともすれば情報過多による記憶喪失さえ引き起こしかねない今日、そのようなささやかな記憶の積み重ねはきっと何かにつながるはずです。

必死に何かを思い出そうとするのですが、なかなか甦ってこないことへの苛立ち。

だから何かに書き記すのです。

その何かのひとつにこの掲示板がなってもいいのではないかと思うのです。
増村保造『盲獣』 TEE
00/12/24 Sun. 02:57
11月から始まっていた「増村保造レトロスペクティブ」@渋谷・ユーロスペース、
今さらながらついに見てきました。

『盲獣』(1969)、緑魔子主演。
いや、これはほんとに凄かった。とにかく圧倒的な力で引き込まれてしまう。彼の映画が「豪速球」「速度の映画」と言われていることに心から納得。

「早過ぎたモダニスト」か・・・。たしかにそうだ。

しかし、小生はどうして通わなかったのだろうと後悔するばかりです。
とにかく、時間が許す限り、この年末年始はユーロスペースに行かなくては、と強く思ったのでした。

見逃すと公開しますよ、きっと。

*『盲獣』は1月2日〜5日の期間にも上映されます。
トン・ゼー タムラ
00/12/24 Sun. 20:23
去年か一昨年だしたアルバムは聞きました。確かトータスかマッケンタイアがリミックスしていた気がします。シカゴ系の人達はあんまりブラジルの方と繋がったという話は聞きませんが、好きそうですよね。でもレッドホットリオというブラジルのコンピレーションにステレオラブ(シカゴ系?)がハービー・マンと参加してました。素敵な一枚です。
>Sさん (ナツ) [Mail]
00/12/25 Mon. 00:33
はじめまして。浅田彰の言説を追うという浅田ファンページを作っている(ナツ)と申します。

さて、浅田−椹木の対談ですが、html化して私のページに転載させていただいてもよろしいでしょうか?
佐内正史トークイベント miko
00/12/25 Mon. 01:39
 一昨日、ナディッフで佐内正史のトークイベントが
ありました。11月のイベントには行けなかったので
期待して行ったのですが、写真の話はほとんどなく、
太宰の話もとりたてて面白かったわけではなくてやや
がっかりでした。ちょっと変わった感じの人でしたね。

 最近、彼のデビュー写真集の「生きている」を探して
いるのですが見つかりません。どこにいきゃあるんでし
ょうね。

 今年の後半は、若手の写真家が写真集を出していますね。
佐内さんの「女性徒」、長島有里枝、蜷川さんと。来年の
1月6日に、長島さんとホンマタカシの参加するイベントが
あるようです。いずれ正確な情報載せます。

 内容がないですね。まあこんなことも。実物の雰囲気が
写真と一致したのって伊島薫ぐらいかなあ。 
三たび、トン・ゼー oui
00/12/25 Mon. 07:13
ボクもマッケンタイアのリミックスが入ったトン・ゼーのアルバム(日本盤)を試聴した記憶があります。(@代官山・bonjour records)たしか、リミックスには他にBECKやステレオラブの名があったと思うのですが、よく覚えておりません。ただ、このラインのミュージシャンはかなりトン・ゼーを評価し、愛聴しているのは確かなようです。
その当時は確かに面白いなと思ったのですが、イマイチ自分の中にピンと来ず、結局買わなかったのでした。

しかし、未だに新作を発見できずにいます・・・。
もう出ているはずなのですが。
ウォルター・ニーダーマイヤー K [URL]
00/12/25 Mon. 17:54
ギャラリー小柳でやっていたウォルター・ニーダーマイヤーを見てきました。
海水浴場とクラブを撮り続けた写真集をこの前見つけて、興味深く思っていましたが
この個展の一連のスキー研修の写真というのはそれ以上にユーモラスでした。
すっごく合成っぽいつくりなのにもかかわらず実は実写であるというところが面白かったですね。
すごくよかった。しかし彼の写真集が手に入らなかったのでかなり残念でした。

今年印象に残った展覧会というのは三鷹市芸術文化センターギャラリーでのフロリアン・メルケル展とオペラシティギャラリーでのリュック・トゥイマンス展かな。
どちらとも日本で初の本格的な展覧会とあって見ごたえ充分でした。トゥイマンス氏のレクチャーも実制作に親密な関心事項とこれからの問題意識を伺えて興味深い内容でしたし。
あとはゲイリー・ヒューム初の画集が出たという事でしょうかね。
長島有里枝/SCAI THE BATHHOUSE K
00/12/25 Mon. 18:40
入って右側、展覧会チラシ、最新写真集の表紙となっている写真。がすごく良かった。
意外にも(?)かなりクールで洗練された感じの写真がならび、すごくいいものを見たといった印象を受けた。やっぱりその(上の)写真がいい。これを見れただけでもこの展覧会に来て良かったと思えた。
しかし、惜しかったのが、正面の大壁面のプリントが今回の全体の瑞々しい感じとはミスマッチに思えてならなかったところだ。前回のジュリアン・オピーの大ポートレイト(前回の展覧会、ジュリアン・オピー展においてオピーは大壁面にチャック・クロースばりの大きなポートレイトを描き、会場を飲み込んでいた。)の後であるのもあいまって、一番奥の小スペースの使い方が絶妙だっただけにやはり大壁面の使い方が惜しまれた。
エドワード・ヤン『ヤンヤン 夏の想い出』 TEE
00/12/26 Tue. 01:07
見てきました。(@渋谷シネパレス)

2時間53分、最初は思っていたより緩くて大丈夫かと余計な心配をしてしまったのですが、やっぱり物語の構成が見事で、家族それぞれの人生に訪れたひとつの節目と呼ぶべき出来事を実に丁寧にじっくりと描き出していて、見応えがあります。
小生も徐々に物語に引き込まれていき、色々な想いを馳せながら、見入ってしまったのでした。
こういうタイプの映画は本当に力のある監督さんじゃなきゃダメですね、ほんとに。
やはりエドワード・ヤンは素晴しいと思います。

それにしても、ヤンヤン(7歳の子供さん)の使い方は見事。かなりおいしい役です。そこに落とされると、何も言えないよなというエンディングでした。はい。

個人的には、ミンミン(という名前だったか?)の切なくつらい初恋、NJ(ヤンヤン、ミンミンの父親/コンピューター会社の重役)の初恋の人との思いがけぬ再会・・・の辺りがグッと来ましたね。

しかし、イッセー尾形はいい仕事をしています。

こういう作品にもやっぱり弱いですね。
とにかくいい映画なので、御家族で御覧になるのもいいと思います。こういうものこそ映画館でじっくり鑑賞すべきです、うん。


どうでもいいことですが、ちょっと前に町田康氏と共に芥川賞を受賞された松浦寿輝教授もおひとりで来ておられました。
『ユリイカ』小説版発売! TEE
00/12/26 Tue. 01:26
青山真治著『ユリイカ』小説版が角川書店より出版されました。
実はこの前のプレミアナイトの際にその話は聞いていたのですが、いざ実物を見ると、何と言うかちょっと躊躇(?)してしまいました。でも、映画を見て揺り動かされた小生としましては、やっぱり読んでみたいですね。

映画監督さんが自分のつくった映画のノベライズをするという例はいくつかるあるのですが・・・。映画/小説、難しいですね。
個人的に興味深く読んだのは、黒沢清著『CURE』 (たしか徳間文庫)でした。映画はもちろん傑作なのですが、映画とあわせてこの小説にも目を通すことを強くお薦め致します。色々考えさせられますよ。映画というものについて、小説というものについて・・・・・・・・・・・・・・・・・

『ユリイカ』ノベライズ、どうなんでしょうか?
映画を見てから読むか、読んでから見るか、映画だけ見るか・・・・・・・・
返事いらないよ チャパリータ西澤 [Mail]
00/12/27 Wed. 00:16
やあtokihito君。西澤だよ。相変わらず場違いで悪いね。渋谷のクラブとかで興行やってるDDTってプロレス団体あるじゃん。最近好きなんだよね。俺ら学生プロレスもクラブでイベント試合してみたいな。君の音楽とキュートなプロレスで時代を挑発してみないか。なんてね。じゃね。