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原宿フラット rino
00/12/02 Sat. 03:03
ラフォーレミュージアムでのトーク・イベント「原宿フラット」に行ってきました。
なお、今回のトークは『美術手帖』誌にも採録されるとのこと。

前半は村上、椹木、岡崎の3氏による各20分程度のレクチャー。村上氏は「SUPER FLAT L.S.D BAR (JESUS & MARY CHAIN)」という題で日本アニメやハリウッド映画などの映像をつなぎ合わせたビデオを上映。椹木氏は「新・日本ゼロ年」という題でスライドなどを使いながら自著『日本・現代・美術』と「日本ゼロ年」展のコンセプトについて語り、岡崎氏は「礼楽の問題」という題で“美術の問題は最終的に礼楽の問題に帰着する”と語りました。

礼楽〔れいがく〕とは古代中国で社会秩序や人心の安定のために必要とされた儀礼的慣習などを指す言葉。すべてのことを合理的に説明しきることはできないが、それでは落ち着かないので安心を得るために与える取りあえずの解決。葬式から帰ったら塩を撒くとか、プラズマを火の玉と言って済ませるとか。コンピュータの仕組みをすべて知り尽くすわけにはいかないから、多くの人は「デスクトップ」という隠喩のインターフェイス上にとどまりながら他の部分はブラックボックスとして済ませておく。ややこしいものをやりすごしてスムーズにことを運ぶためにはそのような礼楽は不可避である。しかし礼楽的なものの存在を忘却したり、それが不可避だからといってひらきなおるべきでもない。美術の問題も同様で、美術が成立するためには流派とか理論付けとかが不可欠だけれども、それは礼楽であるということを忘れてはいけない……というような話。

後半は浅田氏を加えてのパネル・ディスカッション。
浅田氏は「スーパーフラット・アイロニー」(『波』2000年6月号所収、新潮社)における村上氏の作品に対する自らのアンビバレントな評価を再確認し、その表現のクオリティは認めた上でしかし岡倉天心=フェノロサ/ブルーノ・タウト/岡本太郎が外からの目で「日本」を発見してオリエンタリズム的に評価したのと同じことの繰り返しではないかという危惧を感じる、ということを言われました。
それに対する村上氏の回答は、自分がたとえば「スターウォーズ」のような遠近法もナラティヴもないようなのっぺりした作品を見たときに感じた強烈な違和感をなんとかリアリティを持った表現にしてみたいと思ったときに、振り返ってみたら日本のおたく文化があった。ことさら「日本がスーパーフラットで世界の最先端」とかおおみえを切るのはマーケットを意識してのことで、ある程度マーケットで成功しないとリアルなものとして受け取ってもらえないという現状があるからだ、というものでした。これはある意味で誠実な姿勢であると思いました。
浅田氏は他にも、村上氏がある種のおたく的な“貧しさ”を目指すのはわかるが、しかし村上氏の優秀すぎるデザイナーとしてのセンスがそれを邪魔している。あまりにもビシッときまった構図で、アートとしかいいようがない。絹谷幸二のほうがよほど貧しく漫画的である……とか、おたく的な表現が真の転覆力を持つということはありそうもない。なぜなら森首相を見よ。天皇即位10周年のYOSHIKIの奉祝曲を見よ(皇紀2600年のときはリヒャルト・シュトラウスとかジャック・イベールとか錚々たる作曲家に依頼してるのに)。東京都写真美術館庵野秀明の映画を上映しろと徳間康快=石原慎太郎が命じるのを見よ。日本の権力のほうがすでにジャパニメーション化している……とか、いろいろ言っていました。

「日本」とか「欧米」とかいう軸の話にはあまり乗ってこなかった岡崎氏でしたが、村上氏に乞われて、自身の代表作とされる「あかさかみつけ」シリーズについて自ら解説したのが印象に残りました。普段そういうことはしゃべらない人なので。あれを作ったときは、風船爆弾(“貧しい”けれども技術の粋を凝らした高性能品)のつもりだった。ジャッドとカロの対立などは茶番だ、そんな対立はこれで解決できると思った。しかしその貧しいやり方が「日本」特有であるとかそういう風には考えない……などなど。

結局10時過ぎまで話が続いて、期待以上に内容があったと思います。
「新・仁義なき戦い」を見る tokihito
00/12/02 Sat. 04:30
12月1日は映画の日ということで、久しぶりに映画を見に行ってきました。

阪本順治の「新・仁義なき戦い」を見る。
濃いメンバーの男優が繰り広げるドラマは見応えがありましたが、爆発力がない。
今作と同様、前作の「顔」もいい作品ではあるのですが、何というかイマイチ自分の中に入ってきませんでした。
「どいつたるねん」は本当にいい映画でしたし、「トカレフ」には衝撃を受けました。
「傷だらけの天使」や「愚か者」も何というか緩くはなっているのですが、個人的には好きな作品でした。
"男"を描かせると随一のものがあります。

入ってくる映画を久しぶりに見たいものです。
青山真治の「ユリイカ」はどうなんでしょう。
ミーハ−な二人 miko
00/12/02 Sat. 19:03
 一昨日、表参道で佐内正史及びホンマタカシの写真を見てきました。
佐内さんは太宰の「女生徒」をモチーフに、ホンマタカシはベルリンの
空撮でした。
 写真の質が違うので比較に意味はありませんが、同じ日に見るとどう
しても比較してしまいます。佐内さんのポートレートはなんとなく今の
若手写真家特有のエロさがあってあまり好きにはなれませんが、乾いた
感じの何気ない風景の切り取り方は、写真を撮るものとして憧れる感性
ではありました。ホンマタカシの方は、あまり僕にはインパクトはあり
ませんでした。最近のSWITCHの貝島さんとの建築の特集といい、彼は今
「何」を撮りたいのだろうと感じてしまいます。
 最近モチベーションが比較的高いレベルで維持できているので、見る
方も撮る方も楽しくて仕方ありません。
世界の蜷川 kanjaki [Mail]
00/12/03 Sun. 02:30
 桐朋短大専攻科演劇専攻二年試演会を見て来ました。明日っつうか今日までだけどタダなんでお薦めです。他の芝居の値段と比べたら4000円か5000円位の価値はあると思いました。
『作品たち』、構成・演出、蜷川幸雄。
ボルヒェヒト、三島由紀夫、宇野イサム、エウリピデス、清水邦夫、宮本輝らの戯曲・小説・エッセイを切り取って演劇に再構成した作品で、七編の断章からなる公演でした。断章といっても緩やかな統一感を与えていて、まさに「世界」の演出家の力量を肌で感じることのできるお芝居だと思いました。DJとか、、、音楽ではこういう切り張りだけで作品を構成するってのはもう古いのかな。でも、演劇では初めて見た。辛うじて物語性も保っていて、かといってその物語のためにサンプリングする作品を選んでますよって嫌味もなくて。やや感傷的になり過ぎる感のあるラストも若い演劇人を育てる試演会という枠で考えれば納得。
舞台上の小道具を隠喩的に使う手法も他の、ノダとかそんなのとかとは比べられないくらい洗練されているように感じまる。
さすが世界のニナガワとか思いました。なんたってただだしね。

次回、『真情あふるる軽薄さ』作/清水邦夫・演出/蜷川幸雄
シアターコクーン)も楽しみ。
そしてカプリコ冬公演もどうぞよろしく。
dumb type/memorandum 03 tokihito
00/12/04 Mon. 02:01
あれから色々考えているのだけれど、もしかしたら、ひとつの「舞台芸術」として捉える際、今回の作品の方が優れているかもしれない。

「OR」という作品はたしかに圧倒的な衝撃を齎したのではあるが、それはやはりあの音楽と映像と照明の力によるところが極めて大きいということは疑いえない。音と光と映像に、観客はある意味容赦なく襲われてしまうわけで(そのような舞台を「暴力的」と評する者もいた)、ただただその中に立ち尽くし、自分の感覚に降り掛かってくるものをその時は一方的に享受するしかなかったのだ。(そこには有無を言わさぬ力(そうするだけの必要性)があり、個人的にはそのような表現を選んだ彼らに大きく心を揺り動かされたものなのだが。)

プログラムに掲載されているインタビュー(高谷史郎/西堂行人[演劇批評])でアーティスティック・ディレクターの高谷氏は次のように語っている。
西堂:「今回の作品についてのコンセプトは何ですか?」
「真っ暗のなかにポツンとパフォーマーがいるというのが狙いです。前作の『OR』で、映像と音楽は行き着くところまで行ってしまったというのがあると思います。ですから、今度は静かに「鑑賞」してもらおう、と。(笑)そこで考えたのは、身体が何ができるかということなんです。これまで映像のせいで美しく見えていたのではないか?それが試される。今回はパフォーマーに身体の極限までやってくれと要求しています。」

2度目は、実はかなり近くで見ることになったのだが、これが実に素晴しかった。パフォーマーの存在感、身体の動き、息遣いがグッと迫ってきて、私は舞台から目を離すことができなかった。緩慢な場面もやはりそれはとても必要なものなのであることを改めて認識した。そのユーモアは見る者の心をふっと軽くし、それぞれがそれぞれの仕方で受けとめ、自由に連想することを可能にするのだ。ひとつの流れ、ひとつの大きなメッセージを押し付けるのではなく、バラバラの断片を観客それぞれが受けとめ、編集しながら、「舞台」を味わうというあり方。
ただ、それは観客の個人的な嗜好に留まるものではいささかなく、大きな記憶の流れというものへと繋いでいこうとしているということは重要である。

そのように考えてみると、ラストのシーンはとてつもなく良くできていて、私は鳥肌が立ちっぱなしだった。やっぱり凄い、としか言い様がない、この最後の一連の流れは。

一緒に行った人が次のように言っていた。
「今回の作品には「見る楽しみ」がある。たしかに迫力のある音や映像には痺れたけど、それだけではなく、見ていて色んなことを思い出したりしてとても楽しかった。いい舞台だった。」

やっぱり必見の「舞台芸術」です。
「ロシュフォールの恋人たち」に涙する TEE
00/12/04 Mon. 03:08
"Les Demoiselles de Rochefort"=(邦題『ロシュフォールの恋人たち』1966/127min./フランス/監督=ジャック・ドゥミ/音楽=ミシェル・ルグラン)、[シアター]イメージフォーラム(渋谷)でついに見てきました。

実はこの映画のサントラはかなり前に買って愛聴(!)していたのですが、まさか映画館で見ることができようとは。素直に嬉しい限りです。

Demy/Legrandのコンビといえば、あの『シェルブールの雨傘』が有名ですね。この映画の何が凄いって、若い恋人たちの悲劇を、すべてのセリフを歌にして描いた、ということでしょう。無理があるのではないかと一瞬思ってしまうかもしれませんが、全然そんなことはなく、とにかくどうしようもないほど切なく、楽しい作品になっております。この映画を見て僕は心底ミュージカルをつくりたくなりました。(無理ですけど・・・。永遠の憧れですね。)本当にJacques Demyは天才ですね。もちろん、Michel Legrandの音楽があってこそですが。しかし、カトリーヌ・ドヌーブの美しさ/可愛さといったら、もう。

この映画は、すべてのセリフが歌ではありませんが、唐突に始まる歌のシーン/ダンスのシーンは本当に最高です。僕はその唐突に始まる瞬間がとても好きです。
しかし、フランソワーズ・ドルレアック/カトリーヌドヌーブ姉妹(映画では双子を演じる)の天使のような美しさといったら、もう何も言う必要を感じません。そんな彼女たちが、キュートな服を着て、歌って踊るんだぜ。悪いはずがないではありませんか。もうただ呆然とその快楽に身を任せ、楽しめばいいのです。
こんな映画をつくることができるなんて心から嫉妬しますね。これを見れば、とりあえず、何もかも忘れ、幸せなひとときを過ごせます。

ドルレアック(ドヌーブの実姉)と言えば、僕は、ポランスキーの『袋小路』を思い出します。その存在感は強く心に残っています。彼女の出演は、『ロシュフォールの恋人たち』が最後になりました。この撮影の直後、自動車事故で急死してしまったのです。

そのような意味においても、涙なしには見られない、とてもいい映画です。うん。
12月8日まで、見逃すと後悔しますよ、きっと。
Solo Hotel Room ザ ホテル ヨコハマ 1208 rino
00/12/04 Mon. 06:45
アンジェルス・マルガリットのダンス公演「Solo Hotel Room ザ ホテル ヨコハマ 1208」を観に行きました。

しばらく横浜に行っていなかったので知らなかったけど、今年は「DAN YEAR」だったらしい。神奈川県民ホールの壁面には、「DAN YEAR 2000/作曲家 團伊玖磨 その軌跡の全貌/童謡『ぞうさん』からグランド・オペラ『建・TAKERU』まで」などと大書された巨大な垂れ幕(肖像写真入り)が下がっていました……。

「Solo Hotel Room」はこんな感じ。
“舞台”であるホテルの12階のツイン・ルームに他の10数名の観客とともに通されると、ギター+女声ボーカルのスペイン風のBGMがかかっていて、ダブルベッドの上に黒い部屋着を着た小柄な女性が枕を抱いて寝ている。あたりには読みかけの雑誌など。女性は観客には目もくれずに寝返りをうちながら、いつのまにか床に降り体を転がしはじめ、それがいつの間にかダンスになっている(いや、はじめから全てがダンスだったのか?)。彼女は壁をつたって歩き、スピンし、しだいに速度を増していく。そして高揚が頂点に達したところでスッと音楽が止まり、彼女は再びベッドに突っ伏してまどろみはじめる。ただ寝ているだけなのにこちらは息を飲んでそれを見守るしかなく、スチーム・ヒーターの音だけが聞こえる。しばらくすると彼女は起き出して絵葉書を書き、ふとTVをつける(思わずダンサーでなくTVの方に目がいってしまう)。立ち上がって、それまで閉じていたカーテンをいっぱいに開け、ベランダに出て行く。横浜港の海が目の前にひらけ、冷気が部屋に入り込んでくる。気がつくとさっきまで民放を映していたTVが彼女の眺めているのと同じ港の風景を映し出している。部屋に戻ってきた彼女は読みさしのペーパーバックに目を落とし、それから何かを思い出したようにまた踊りはじめる。再びベッドに突っ伏すまで。
拍手もカーテン・コールも無し。全体で20分くらいだったでしょうか。

小さな空間をひとつの身体の描く欲望の動線が満たしていく、そしてそれをまぢかに見るという演出が、すさまじくプライベートでインティメートな感覚を与えていました。それは、見ていて震えがくるようなものでした。私がそういうシチュエーションに弱いのかも知れないけど。
しかしこのプライベートな感覚は、パブリックなものと陥入しあってもいました。ただホテルの部屋というものが同時にプライベートでもありパブリックでもある場所なのだということだけでなく、プライバシーというものそのものが、それがパブリサイズされるときに初めてリアルに立ち現れてくるものであるということを強く感じました。
部屋を満たしていくように感じられたあの欲望というのも、ダンサーの動線が描く欲望であると同時に、私自身の視線がはらむ欲望だったのかもしれません。
『ユリイカ』特別上映会 tokihito
00/12/05 Tue. 00:13
『ユリイカ』特別上映会 2000.12.9 all night @テアトル新宿

とりあえず、情報として。

青山真治監督の新作『ユリイカ』の特別上映会が、今週の土曜日(12月9日)の午後11時40分からテアトル新宿にて行われます。
現在前売券(整理番号あり)がテアトル新宿窓口(03-3352-1846)にて、限定200名で発売されております。(4日夕方確認をとったところ、まだ席はあるようです。)
all night、同時上映は、監督のデビュー作で鮮烈な印象を与えた、あの『Helpless』です。

「映画芸術」最新号、「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」最新号(未発売)など、様々な雑誌で、『ユリイカ』は大きな反響を呼んでいます。

必見の映画です。

*一般劇場公開は来年早々を予定とのこと。
青木野枝展 rino
00/12/05 Tue. 02:56
目黒区美術館の「青木野枝展――軽やかな、鉄の森」を見ました。

檻あるいは篭のような形をした鉄製の立体が展示室内をいっぱいに使って展開されていました。しかし隙間が多い構造体なので、作品が空間を満たしているというよりは空間をつくり出しています。鉄の枝が林立する中に足を踏み入れて歩き回ると、白い部屋の中で黒い鉄のフレームがさまざまに表情を変え、視覚的な快感があります。

完全に蛇足ですが、サブタイトルの「軽やかな、鉄の森」、この「、」はいらないと思う。そういえばDumb Typeの「memorandum」のチラシに印刷されていたコピー、「記憶の畑をたがやそう/時からこぼれ落ちる一瞬、の、光景集(井上ひさし)」。何だこの「、」は! 「文学」なのか? 「詩」なのか?
『EUREKA』2000プレミアムナイト tokihito
00/12/06 Wed. 00:43
情報の続報及び訂正。

12/9(土) OPEN 23:10 START 23:30
料金:¥3000均一
@テアトル新宿

<プログラム>
坂本龍一作曲「THE DAY AFTER」発表
坂本龍一氏のビデオレター上映
トークショー:青山真治(監督)+田村正毅(キャメラマン)
       [ゲスト飛び入りの可能性あり]
映画上映:『Helpless』/『EUREKA』

*200枚限定の整理番号付きチケット 
 ¥3000(Wポストカード付き) 
 テアトル新宿窓口のみで販売
 5日夕方の時点で残りあと100枚前後
 (余ったチケットは当日に回されます。)

企画としてかなり充実していると思います。

クロマティックB&W|シネマスコープ|3時間37分!
2000年・第53回カンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞&エキュメニック賞受賞 『EUREKA』

見逃す手はありません。
第6回アート・ドキュメンタリー映画祭 01 tokihito
00/12/06 Wed. 01:22
『C・ボルタンスキーについて彼らが思い出すこと』
(2000/フランス/33分/ビデオ/監督・撮影・編集=佐藤京子)

彼の作品はたしかワタリウム美術館で見た記憶があります。何枚かの子供の写真とコードが剥き出しになった電球が配置されている壁の光景は、今でも心のどこかに引っ掛かっているようです。

以下、チラシより。
「ボルタンスキーを描くことは彼の作品世界を描くことにつながる。フランスを代表する現代美術家は、アーティストになっていなければ精神病院に入っていただろうと語る。彼は自己の生い立ちを使って虚構の人物を作り上げることで自己を救い、それが同時に彼のアートの原点となった。彼の好む場所---カタコンべやキリスト教殉教者の部屋---は死者の記憶の倉庫であり、インスピレーションの源でもある。・・・」

彼も"記憶"のことを扱っているアーティストです。
その扱い方は、極めて真っ当であるように感じました。ささいな日用品のなかに人の記憶がしみ込み、そこに小さな"歴史"が厳かに立ち上がるのです。

彼が、「自分は作品そのものになりたい。自分を消してしまいたい。ジャコメッティやベーコンが作品そのものになったように。」というようなことを言っていたのが、印象に残りました。
第6回アート・ドキュメンタリー映画祭 02 tokihito
00/12/06 Wed. 02:04
『CHERE LOUISE 〜親愛なるルイーズ』
(1995/フランス/50分/ビデオ/監督=ブリジット・コルナン)

ルイーズ・ブルジョワを知ったのは、たしか3年前に横浜美術館で開かれた展覧会でした。
強烈なイメージ喚起力を誇る数々の彫刻、インスタレーションを目にして、私は圧倒されてしまったのでした。それらは最も個人的なところから生じて、造型され、姿を現したわけで、その"痛み"とも言うべき何かは確実に私の胸を突いたのでした。

以下、チラシより。
「1911年生まれのルイーズ・ブルジョワ。今でこそ重要な現代美術家として認知されているが、長い間美術界から離れたところで制作を続けてきた。フランスのブルジョワ家庭での子供時代、暴君的な父親、あるいは自らのセクシュアリティ。自伝的要素が彼女の作品---彫刻であれインスタレーションであれ---の核をなしている。・・・」

彼女は実に魅力的な方ですね。
しかし、あの蜘蛛は本当に良い。

この作品以外にも『ルイーズ・ブルジョワ』(1993/イギリス/54分/ビデオ)が上映されています。こちらはイギリス人の男性フィンチが撮っていて、見比べてみるのも面白いかもしれません。

カウンターには、彼女のCDが置いてありました。どうなんでしょう。ちょっと聴くのが怖いです・・・・。
第6回アート・ドキュメンタリー映画祭 03 tokihito
00/12/06 Wed. 03:14
『William Forsythe:Just dancing around?』
(1995/イギリス/52分/ビデオ/監督=マイク・フィッギス/出演=ウィリアム・フォーサイス&フランクフルト・バレエ団))

「この親密なポートレートを作成するにあたって監督は、95年、フランスでの『The Loss Of Small Detail』(「失われた委曲」)の公演を控えたウィリアム・フォーサイス&フランクフルト・バレエ団とともに6週間の時を過ごし、気まぐれな被写体を追いつづけた。1984年の同バレエ団芸術監督就任以来、新作ごとに身体表現の新たな可能性を示し、世界のアートシーンに影響を与え続けるフォーサイス。フランクフルト市やバレエ団とのパートナーシップなど、ビジネス的側面に関するエピソードも興味深い。」

制作風景を追っていくのですが、とにかくほんのささやかなフォーサイスの動きにも目を奪われること間違いなしです。公演が迫っているにも関わらず、常に冷静に作品を仕上げていこうとするその姿勢。音楽に関して、「ヘンデルは失敗だ。」と言い、今度はヘンデルの楽譜を逆から演奏したものを使ってみたり、そして公演初日の3日前に音楽を全て変更してしまう、その決断力。自分がつくろうとしているものがわかっているからこそできるのでしょう。
スポンサーの無遠慮な介入に心底腹を立てているフォーサイスには共感しますが、芸術と経済の問題は本当に難しいものだなとしみじみと考えてしまいました。


『THE INTERVIEWS』(制作・著作:シアター・テレビジョン)
「フランクフルト・バレエ団〜フォーサイスをめぐる4人の証言」
 (出演=ダナ・カスパーセン/アントニー・リッツィ/グレン・ダッグル/ウルス・フライ)
「フランクフルト・バレエ団の中心メンバーである4人が振付家フォーサイスについて語る。99年3月、新国立劇場にて収録。」(28分)

断片的な映像を見ただけで、去年の公演の様子が鮮烈に蘇ってきました。それそれがそれぞれの立場から見たフォーサイスを語っているのですが、中でも特にバレエ団の中心ダンサーとして活躍している(創作にも深く関わっている)ダナ・カスパーセンの言葉が印象に残りました。(彼女は体を動かしながら話すのです!)

「ウィリアム・フォーサイスの現在」
 (出演=ウィリアム・フォーサイス)
「バレエ団の縮小、TATの芸術監督就任など周りの状況やシステムが変化した中にある彼が、自身の近況を語る。2000年3月、本拠地であるフランクフルト市立劇場の彼のオフィスにて収録。」(30分)

フォーサイスが新作『Endless House』について語っていますが、これがなかなか興味深い試みです。どんなものかというと、まず第一幕は、ステージを全部見渡すことのできる従来の劇場での公演、そして第2幕では観客の方々に移動してもらい、適当に椅子の散らばった空間の様々な場所で同時多発的にパフォーマンスを行うというものだそうで、心底見てみたいと思ってしまいました。(既にフランス公演も行われている模様)
彼がZKMと製作したCD-ROMについても解説しています。
(そのCD-ROM『Improvisation Technologies』の日本版が慶應大学出版会から発売になっています。[\6825])
彼が話していることを聞きながら、色々なことを考えさせられました。彼の興味の中心は「アルゴリズム」(邦訳すると「計算の方法」ということになるのでしょうか)にある、とのこと。なるほど。


3本あわせて約1時間50分。内容がぎっしり詰まっています。少しでもフォーサイスに興味があるなら、足を運ぶべきでしょう。
とにかく、大きな刺激を受け、数々の思考の材料を提供してくれるということに間違いはありません。

この映画祭は15日まで、渋谷・ユーロスペースで行われています。フォーサイスの回は、11日と15日以外は上映されます。

必見です。
アンセル・アダムス&ロッド・ドレッサー展 miko
00/12/06 Wed. 08:57
昨日、アンセル・アダムスの写真展に行ってきました。感じたことを二点。

一点目は、写真の平面性について。これは、前回の自身が出品した展示のアンケートにもあったことなのですが、写真の場合は奥行きが完全に平面の中に表現されます。映像もそうではないかという指摘もあるかと思いますが、映像の場合は動きがあるので手前から奥、奥から手前という被写体自体の動きや、カメラのフォーカスの動きで写真よりは奥行きは自然に表現できます。
「雄大な自然」を撮ろうと思ったことは自分はないのですが、非常に奥行きが上手く表現されているように感じました。特に、ファッションフォトの場合は、平面性を逆手にとって動きをパロディにしたり、そこに生まれるいびつさが返って刺激を生んだりということがあるので、ただあるものを豊かに表現することの良さをしみじみと感じました。ドレッサーの方は、砂漠の写真以外にはあまり刺激はありませんでした。

二点目は、先と関連して焼きこみって効果的なのだなあと。私の場合は、カラー写真が中心で、あまりモノクロプリントの技術がないのですが、上述の奥行きに関しても、焼きこみが多大なる貢献をしているのは確かで、技術上げようとしみじみ感じました。焼きこみとコントラストの加減がすごく上手いなあと。(無論、自分と比べているわけではありません。恐れ多い。)

ということです。この写真展はもう暫く赤坂の東京写真文化館で開催されています。
12月おすすめの映画 01 TEE
00/12/07 Thu. 04:00
2000年も、はや12月を迎えているわけで、ザワザワしてきましたね。「師走」とはよくいったもので、どなた様もお忙しい日々を過ごされていることでしょう。

さて、「2000年の映画ベストテン」とかいう哀しい企画を皆様にぶつけたいというよからぬ欲望をぐっと堪えて(だいたい順位などつけられないものです、本当に)、12月おすすめの映画を選出してみることにしました。

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(12月23日から@丸の内プラゼール/渋谷松竹セントラルなどで上映)
今年のカンヌでパルムドールを受賞した、あのラース・フォン・トリアー監督の最新作。
主演のビョーク(!)は女優賞も取りました。
はたして、トリアーはどのような「メロドラマ」を撮ってしまったのか。
まあとにかくビョークの存在感に注目、ですね。

『ヤンヤン/夏の思い出』(12月16日から@渋谷シネパレス)
これもカンヌで監督賞を取りました。
エドワード・ヤンの最新作。
個人的にとても好きな監督であり、期待しています。
(『クーリンチェ少年殺人事件』は傑作でした。『エドワード・ヤンの恋愛時代』、『カップルズ』、ヒリヒリと痛い"リアル"な映画でした。)
2時間53分もありますが、退屈はしないことでしょう。

『愛のコリーダ2000』(公開中@シネ・アミューズ)
2000!2000!2000!
ついに公開される、ノーカット『愛のコリーダ』。
映倫には本当に困りますね。
去年『御法度』で復活した、大島渚監督が1976年につくりあげた傑作です。
とりあえず、足を運ぶしかない、という感じでしょうか。


まずはこの3本から。
『棒の哀しみ』に泣く TEE
00/12/07 Thu. 04:22
神代辰巳の最晩年の作品『棒の哀しみ』を今さらながらビデオで見る。
本当にいい映画です。
「棒のように生まれ、棒みたいに死んでゆく。俺は所詮そのような男でしかない。」というようなことを主演の奥田瑛二は言いますが、もうそんなことを言われた日には、僕は何も言うことができません。
「棒」か・・・・・・。

もはや涙など出ませんが、こんな時には泣きたくなってしまうのです。

僕は何を言っているのだろう。

しかし、哀川翔は相変わらずいい仕事をしています。
POLAR K[URL]
00/12/07 Thu. 16:22
だいぶ前のことになりますが、カールステン・ニコライ、マリコ・ペリハンの「POLAR」へ行きました。
カールステン・ニコライならではのノイズがオーシャン・スペースと名づけられたスペースに響き、微妙な磁場が発生していました。
体験者(複数人)の位置関係によって映像や環境が微妙に変化していくのですが、
もっとドラスティックな変化を期待していたので、少し腰砕けな感じでした。
99年ICCビエンナーレもそうだったのですが、インタラクティブ・アートの中には観客へのインターフェイスが上手く取れていなくて、
手探りで作品を掴み取っていくにはあまりにも難解になってしまっているものがある。
「POLAR」もまた、体験中にエラーが発生してしまったこともあって、結局よく分からないまま終わってしまったという部分があった。
しかし、エラー中にマリコ・ペリハンさんが来て、作品の解説をしてくれた。
体験者の選んだキーワードを基に、コンピュータ内に言葉のデータベースを作り上げ、
その言葉の関係性が、体験者の行動の記録(温度、湿度、運動の軌跡)によって恣意的に組み上げ、
人間から見ればちぐはぐなディクショナリを作り上げる。というコンセプトにそって環境が変化するというものだということです。
それを聴くと、非常に分かりいい作品だったのですが、肝心のデータベースに触れる段階、
この作品の核心の部分でエラーが発生してしまったので残念なばかりでした。
会期中の早い段階での体験だったのでデータベースが未熟なので、また一週間後くらいに来ると
環境は変化してコンピュータ内のちぐはぐなディクショナリが機能するよ、とペリハンさんは言ってましたが
二回目はありませんでしたね。それも残念でした。
トーマス・シュトゥルート K
00/12/07 Thu. 16:49
これまただいぶ前なんですけどトーマス・シュトゥルート展を見てきました。まだやってますよね、これは。(終わっちゃってる?)
すごいいい写真が多く、感動したのですが、シュトゥルート自身の凄さ(空気感や構図、視点、いろいろ)はもちろんのこと
なにより西洋の写真家の中でのベッヒャーの影響の強さ、偉大さっていうのがひしひしと伝わってきました。
シュトゥルートはもちろんベッヒャーに師事していますからもちろんですが、
俺の一番好きな写真家の一人であるヴォルガング・ティルマンズもコンコルドシリーズといい、
なにかベッヒャー的な空気感を感じてしまうのは俺だけでしょうか?
ギャラリー360°でのホンマタカシの空撮においてもベッヒャーを感じました。
まあ、たんなるベッヒャーびいきの話なのですが、ベッヒャーの作ったレギュレーションが
若手のフォトグラファーの中に見て取れるということが改めて思われて、興味深かったです。
愛のコリーダ2000!2000!2000! TEE
00/12/08 Fri. 02:37
何を興奮しているのかわからないけれど、とにかく『愛のコリーダ2000』見てきました。

男と女、個と個という人間存在の根底にある関係性の激しさ・恐ろしさを深く深く深く真正面から描き出した、有無を言わさぬ傑作ですね。
小生は心底参ってしまいましたよ。

しかし主演のふたりが見せる表情といったら、もう。
ちょっと言葉にできないほどです。
しかし、そこに現れてくるものと小生との間にはあまりにも距離がありすぎて、正直つらかったですね。
小生が決して描き切ることができない世界をここまで見事にやってしまっているわけですから、心底嫉妬しましたよ。

しかし何がよくないって、ボカシですよ。ボカシ。
全く何を考えているんだ。映倫のやつは。
ボカシを入れることでかえって品性を落とし、映画自体を傷つけているのがわからないのか。
パゾリーニの時にも感じましたが、やっぱり日本はよくないです。

『愛のコリーダ2000』、見ておくべきでしょう。
音漏れ SETENV.
00/12/08 Fri. 02:57
「都市を歩く私の耳には、さまざまな声や物音、音楽がひっきりなしに入ってくる。それがもはや常態であり、慣れてしまえば、別にどうってことはない。・・・でも、その時不意に私の中に未知の音が突き刺さってきたのだ。私は不安の渦に巻き込まれていることを認識した。自分がどこにいるのか一瞬わからなくなってしまったのだ。私は目を閉じて、ジッと耳をすませた。・・・そして、」

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12月9日/午後/渋谷/公園通り・・・・・・・・
TV情報 hakase
00/12/08 Fri. 05:46
12月8日(金)おすすめの番組を紹介。

NHK教育 22:00〜22:45
 地球時間『ヨーコ・オノの素顔』
言わずと知れたジョン・レノンのパートナーですが、彼女はまた、あの有名な前衛芸術集団(!?)フルクサスでも活躍したアーティストでもあります。
個人的には、彼女がつくった音楽作品にはちょっとびっくりしたものです。
アーティストの面にどこまで触れるかわかりませんが、お暇なら見てみてもいいのではないでしょうか?

NHK衛星第2 22:30〜23:45
 『詩のボクシング 3』
今回は島田雅彦、平田俊子、高橋源一郎の各氏が出演するみたいです。どうなんでしょうか。
最近、至る所でポエトリー・リーディングが盛んに行われておりますが。
「言葉」か・・・・・・。
Re: TV情報 rino
00/12/08 Fri. 07:38
そういえば、

「日曜美術館」NHK教育
12月10日(日)9:00(再放送20:00)

これも「オノ・ヨーコ」特集をやるそうですね。
刀根康尚 tokihito
00/12/08 Fri. 08:16
刀根さん(1月のおすすめのイベントとしてソロ・パフォーマンスがピックアップされています)については私もほとんど知らなかったのですが、かなり興味を惹かれています。

InterCommunication no.35(最新号)では、HEADZの佐々木敦氏が、期待するアーティストのひとりとして先日Experimental Express2000で初来日したHeckerを紹介しているのですが、そこで彼のサウンドをリミックス/リコンストラクトした人々のひとりとして刀根さんを挙げています。
「元フルクサスのアーティスト。NY在住。ジョン・ゾーンのレーベルTZADIKからリリースされた『Solo for Wounded CD』は傑作!」とそこでは書かれています。

他には、TOWER RECORDSが隔月で出しているミュゼの最新号にインタビューが掲載されています。

かなり気になる作曲家ですね。
Re: POLAR rino
00/12/08 Fri. 11:40
私も「Polar」に関してはKさんとかなり感想を共有します。ICCビエンナーレは見逃しているのですが、サウンド・アート展に出品されたカーステン・ニコライの「フローズン・ウォーター」という作品にも実は不発感を覚えました。
もちろん、真っ白な空間の中で微妙に変化する光と音に洗われる「Polar」の10分間はたしかに瑞々しい体験であったし、空っぽのキューブの中で情報の非物質的な流れに身を浸すという、彼らのやりたいことがわからないわけでもないのですが。テクノロジーのファッシネーションではなくテクノロジーそのものを提示したいというのは正しい方向であると思いますし。
しかしことニコライに関する限り、彼の本領はインスタレーションよりも電子音学の分野での(ノト名義での)活動にあるように感じます。

エラーに遭遇されたというのは、もしかしたら貴重な体験だったのではないでしょうか(笑)。会期中に行われたアーチスト・トークでのマルコ・ペリハンの言葉によれば、エラーやミステイクも作品の内であると。そのようなイレギュラーなものが個々の体験の単独性や個別性をつくり出すのであると。いうことでした。
これは99年のMEGO@ICCで来日したピタも、エラーを誘発することによって作品をつくるのであるとか、似たようなことを言っていた気がします。

もっともこの〈エラー理論〉には疑問もあります。これはミハイル・バフチンがドストエフスキー論の中ですでに指摘していることだけど、エラーというのは原理上、ある“正しさ”に対してはじめて言い得るものだから、エラーが唯一の個別化の動因であるとするなら、逆説的に単一の真理というものを認めることになる。従って、エラーをインディヴィデュアルなものとして評価する態度は、単一の一般意識に対する偏差として無数の経験的な意識を想定するという観念論(イデア論)のたんなる裏返しになってしまうのではないか。
これはニコライ−メゴ的な作品に対する批判というよりは、〈エラー理論〉がそれを十分に説明できないことへの疑問ですが。
そこでバフチンが出してくるのが有名なポリフォニーという概念なわけで、これはつまり真/偽の判定をする体系(意識)が同時に複数個並立しているということ。実際ニコライ−メゴにしても、ある位相ではエラーと見なされるものが他方では作品として成立しているわけだから、そこには複数の体系があるわけです。「エラー」だけではそのうちの一方しか説明できない。これを補完するコンセプトをちゃんと出さずに実感主義的にやると、たんなるテクノロジー表現主義みたいなものになって行き詰まるであろうと思います。

他にそのレクチャーで印象に残っているのは、ニコライは東ドイツ、ペリハンはスロベニアの出身であるという、その“東欧性”が自分達の作品には現れていると言っていたこと。また、アンドレイ・タルコフスキーとスタニスラフ・レムの映画『惑星ソラリス』から受けたイメージが「Polar」のベースにあると言っていたこと。……などでした。
アンリ・カルティエ=ブレッソン miko
00/12/10 Sun. 02:03
 帰ってきたら、思いがけずETV特集の再放送でアンリ・カルティエ=ブレッソンの
ドキュメンタリ−をやっていました。カルティエ=ブレッソンは「決定的瞬間」など
の言葉の生みの親で、20世紀を代表する写真家の一人です。

 今年、赤坂見附の写真文化会館でも展示をやっていたのを思い出した。今まで話を
聞いた写真家の中では、最もイデオロギーを持っているように感じました。私の写真の
スタンスとは随分ずれていますね。自分と共通しているのは「ただ生きていて写真を
撮っているところ。それを説明する何かの部分ではあまりに埋まらない隔たりを感じ
ました。それよりも生きてたんですね、ブレッソン。(笑)

 ブレッソンは、写真をとる芯の部分を「感受性」を中心にした本能のようなものに
還元していました。けれども、彼の続きの話を聞く限りは、その本能の少なからずが経験
的により洗練されていくように感じられます。とかくモノ作りのセンスをある種の魔法の
ような言葉に落としこむのが、芸術の風潮のように感じられ、「才能」は寧ろ後天的に
個人に構築されていく立場、に近い私からすると違和感を感じます。

 あと、「グローバリゼーションは世界中の文化を画一的にしませんか?」という聞く方も
聞く方だろという質問から、最終的に「私はアナーキストだ。シュールレアリズムの影響を
受けているからねえ。」という発言に至るまでのブレッソンには少し笑いました。「アナー
キズムとは絶対自由主義で、思想である自由主義とは違い、実践である。違うものではあるが
相互補完的なのだ。」という発言もいささか喉を通るのに時間がかかりました。しかしながら、
テレビの画面を通しても、ブレッソンの写真から伝わってくる迫力は十分に感じられました。
EUREKA 01 tokihito
00/12/11 Mon. 01:30
『EUREKA』2000プレミアムナイトに行ってきました。

『Helpless』のあとに『EUREKA』を上映するという構成は実に成功していたと思います。
『Helpless』という物語があったからこそ『EUREKA』という物語が誕生しえたということがよくわかりました。
過去に何度も見た『Helpless』を今改めて見て、そのヒリヒリと乾いた"傷"の痛み、現実の至る所に穿たれた空洞、その決して埋まることのない空洞を抱えながらも生きていくしかないという現実・・・など、当時考えていたことを思い出してしまいました。
これは傑作です、やっぱり。しかし音楽の使い方が本当にうまい。

そして、完成を知ってから最も見たかった映画『EUREKA』。
本編3時間37分、本当に久しぶりに引き込まれてしまいました。自分の中にぐっと入り込み、掻き乱し、思考を触発し、パッションを動かしたのです。
まだうまく整理できないのですが、ここまでの物語を正面から語り得たことに素直に驚きました。この映画の長さはこの物語を語るのに必要な長さなのです。余分なものを削ぎ落とし、本当の輝きを見つけるために必要な時間なのです。この映画の隅から隅までそのような研ぎ澄まされた感覚が伝わってきました。ラストは落とすところに落としたというより、そこに辿り着くために要請された物語の極めて真摯な結末であり、それは「何か」の発見なのであり、世界への船出であるのでしょう。

しかし、特筆すべきは、その映像の、どうしようもないほどに引き込まれてしまう「美しさ」です。クロマティックB&W(色味のある白黒、色の隠されたモノトーンと言ったらいいのでしょうか)/シネマスコープの画面はまさに映画館で体験するためにあります。最初のトークショーで撮影の田村正毅氏もおっしゃっていましたが、見る人の想像力でそれぞれに広がっていく画面になっていると思います。とにかく必見なのです。(予告編だけでもちょっと鳥肌が立ってしまうほどです。)

どうしても、[癒しと再生を描いた物語/「癒し」と「再生」の一大叙事詩/息を呑む感動]という形で紹介されてしまうでしょうが、そのような言葉はひとまず置いておいて、とにかく自分の目で見て、自分の中に通すべき、かけがえのない作品です。
安易な「癒し」/「再生」からは最も遠いところにある、今こそ語らなければならない物語です。
それぞれがそれぞれに見て、感じ、考える、そんな真っ当な映画になっていると思います。

『EUREKA』は2001年新春(1月中旬以降)、テアトル新宿にて上映されます。
『EUREKA』2000プレミアムナイト #1 TEE
00/12/13 Wed. 02:34
小生も行って参りましたよ。
寒い中、大勢の方々が集まりました。それほどこの映画に対する期待が大きいのでしょう。

ここではイベント報告という感じで行きます。
(順番などが間違っていたらごめんなさい。)

まず、フランス版予告編の上映。それから日本版予告編の上映。このふたつは普通のサイズだったはずです。しかしこれだけでも期待が高まります。
そして目を見張ったのが特別ヴァージョンの予告編です。これを編集したのは、筒井武文氏(映画監督/映画美学校でお教えになっています/批評もお書きになっています)で、クロマティックB&W/シネマスコープの醍醐味を観客の方に少しでも味わって頂くために製作されたそうですが、これがまた本当に凄い。たった数分間だったのですが、「なんなんだ、この画面は。」という感じで、この時点で既にやられてしまったのでした。

真っ暗になってしまってから、坂本龍一氏作曲、J-WORKS(「日本から世界市場へ新世紀を担う新しい映画をプロデュースするプロジェクト」。第1弾として『EUREKA』) SOUND LOGO「THE DAY AFTER」が流されました。この曲は映像が付いて、そのうち映画館でかかるそうです。曲については特にどうということはないです。相変わらずきれいな耳に残る曲です。(ハッキリとしたメロディーラインがあるというわけではないのですが。)実はよく覚えていません。すいません。

それから、『EUREKA』の特大ポスターがステージに置かれ、そこにスポットライトが当たりました。
こういう演出はどうなんでしょう。まあ悪くはないですが。

そのうち館内は明るくなり、司会者が登場。
そしてついに、盛大な拍手と共に青山真治監督、田村正毅キャメラマンが登場されます。特別ゲストには、『Helpless』にも出演している、斉藤陽一郎、光石研の各氏。男ばっかりだ。

しかし、坂本龍一氏のビデオレターが間に合わなかったお詫び(!?)として、何と・・・・・。

[次回へ続く]
1968/2001年の文学 ふくしま [Mail]
00/12/13 Wed. 10:06
(このサイトの主催者とやりとりしたメールを本人の
依頼で書き込みします。引用符のついてるとこが僕で
ついていないとこがrinoくんです。って感じでいいん
ですかね?)

> 日曜、すが・福田・渡部・芳川シンポに行きました。
> 「1968年の文学、2001〜」というやつです。
>
> 68年は主に「言語論的転回」、テマティック批評
> が前景化した、というような話で、みなさんどこか
> (それぞれの著作)で読んだことのあるようなこと
> を話すのであまり刺激的ではなかったが、福田和也
> はとりあえずいい人そうだった。
>
> 古井も最近は全然だめで…とかなんとか、うーん、
> 嘆き節ばっかり。なんだか、批評家が小説家を一方
> 的に貶すさまが小林よしのりが知識人を貶すさまに
> 似ていなくもない。と言ったらいいすぎかもしれな
> いけど。でも、決して建設的ではないよな…と思う。
> 違う土俵にいるまま相撲は取れないよ、と。批評と
> 小説が違う土俵なのだ、というわけではなく、同じ
> 土俵にしましょうよ、という意味ですが。
>
> その意味では福田は採点とかしながらも、いちばん
> 良心的なのかもしれない。すがさんは既に100%
> 文学を見限ってるし(柄谷より徹底的だと思う)、
> 渡部直己は今の作家を歯牙にかけてもいないし…。
> 「日本は19世紀が抜けてるから、それをやれ」と
> 福田は言ってました。
>
> ところで、発売して一ヵ月くらいしか経っていない
> 古井の新著が、池袋のリブロ、ジュンク堂、渋谷の
> ブック1stのどこにもないというのはどうなんでし
> ょう? こういう状況を無視して「古井さんも新し
> いのはひどいからねえ…」(渡部)とか、テクスト
> レヴェルに留まっていていいものかどうか。


生協にもないのか……
古井由吉の『聖耳』(だっけ?)は、そんなにひどいのだろうか。
山城むつみはたしか『文藝春秋』(芥川賞受賞作が掲載された号だっ
たような気がする)で古井と対談して褒めていたよ。視覚に対して
聴覚は判断以前のレベルにあるものでありそこがおもしろい、とか
なんとか。
まあ本人の目の前でけなすわけにもいかないだろうけども。


日本文学に対して日本映画のほうはこのところ動きを見せ始めてい
るという印象がある。
黒沢清、青山真治、諏訪敦彦、井土紀州、塩田明彦あたりの監督た
ちが阿倍和重(小説家だけど)なんかも含めてひとつの文脈と呼べ
るものを形成し始めている。
彼らは「鷺ポイエーシス」なんかで柄谷行人をかつぎ出して反蓮實
ぶったりしていたけれども、本質的には蓮實重彦の息子たちみたい
なものだと思う。黒沢と塩田は実際にも立教の映研で蓮實門下だし
ね。

いま一見蓮實重彦は勢いを失っているような感じだけども、映画評
論家蓮實重彦の撒いた種が実を結びつつあるのに対して文芸評論家
柄谷行人の畑は不作だったんじゃないか。

実際いまや当の作家たち自身が文学ひとすじじゃあないもの。
松浦寿輝も町田康も阿倍和重もいとうせいこうも石原慎太郎も村上
ドラゴンも、みんな文学じゃないことを何か知らないけど何かしら
それぞれむしろそっちが本業みたいにしてやっている。
そういえば『群像』の1月号で柄谷とそのドラゴンが対談やってい
たけれども、そこで柄谷はのっけから“ぼくはこの『エクソダス』
を文学として読んではいない”みたいなことを(本人の目の前で)
言い放ってるのはある意味象徴的とも思う。
でもやはりそれは、文学だけひとすじに希望を賭けてやっているな
どというほうが、いまやどうかしているというか、この状況の中で
真剣にものを考えていたらそういう風にはできないんじゃないかなぁ。

美術もそうで、“芸術家です。芸術やってます。”なんてひとには、
もううんざりだよ。
“日本に生まれて今はカナダで暮らしている芸術家のわたくしの思
い出と記憶をお米とパンを素材に表現してみました”みたいなのを
たまたまこのあいだ見たけれども、もういい、百点満点で五点とか
だと思う……。
Re: 1968/2001年の文学 rino
00/12/13 Wed. 22:20
せっかく行ったと言うのでおもしろいから投稿してもらいました。
どうもありがとう。
しかし、私が書いたところも投稿したのね……。
内輪向けに無防備に書いたものだけど。いいか。
ヨーコ・オノ hakase
00/12/14 Thu. 00:40
結局私が見たのは、新日曜美術館の方でした。

しかし、彼女の、その強い意志を秘めた瞳には参ってしまいます。

梯子を登ると、真っ白な天井には小さく「YES」の文字があるなんて。やられちゃう人はやられちゃうだろう。ジョン・レノンがそうであったように。

コンセプチュアル・アートか。彼女のものはストレートであり、とてもわかりやすかったりする。そういうことはやっぱり大切なのかもしれない。人間の想像力を信じている。人に伝えようとする強い力がある。

あの時代はとても魅力的だったりする。でも、現在はあの時代のようにはいかない。

それでも新たに活動を始めているヨーコ・オノ。

「芸術は人生に必要な遊びよ。」
「芸術は私にとって生存方法なのよ。」

そのしなやかな強さが印象に残りました。
イヌズカ・サダシ展 rino
00/12/14 Thu. 02:07
「イヌズカ・サダシ新作展 Omoide/Memory」という展覧会をカナダ大使館(草月会館隣り)の付設のギャラリーでやっています。
まあ犬も歩けば棒にあたるで、この会場で現在横浜美術館で行われている「現代の写真II『反・記憶』」展の招待券(一般1000円、学生700円相当)を手に入れました。これに行くつもりで、赤坂辺りについでがある人は、拾っておくと得でしょう。

展示の内容は、下のふくしまくんの投稿にある“お米とパンがどうの”というようなものです。あまりに牧歌的な表現が「記憶」というクルーシャルな主題に拮抗していないと感じます。
さざなみの立つ水面の映像を丸く切り取って床に投影した作品などはクラフトとしては綺麗でしたが。
中国国宝展と谷口吉生の宝物館を見る rino
00/12/14 Thu. 11:06
東京国立博物館の「中国国宝展」。先日の岡崎乾二郎氏はこれを見ていて「礼楽の問題」を思い付いたという。それにあやかろうと思って行ってみたけど、参りました。展示内容にではなくて、人の多さに。「スリに御注意」とか書いてあるし。

会場はこの間までは「エジプト文明展」をやっていた平成館。今の皇太子の成婚記念というモニュメンタルな名目で建てられた建物です。いろいろ国家や民族の威信がこの場所でひしめきあっているのでした。バリバリに壊れた南北朝時代の石仏や、異様に細かい装飾の施された周代の鼎、目玉の飛び出た青銅器時代の凸目仮面などは、そんなジオポリティカルな力線とは無関係にこちらの目を楽しませてくれるのですが。

今回私のもうひとつの目当ては、MoMA拡張案のコンペでも一等をとった谷口吉生の設計による、昨年7月にオープンした法隆寺宝物館を見ることでした。これは透明なガラスの直方体、大理石の不透明な直方体、そして天井と左右の壁だけで囲われた空気の直方体が噛み合わされて全体のボリュームをかたちづくり、直線のみで構成されたウルトラ・モダンな外観に仕上がっていてなかなかのものでした。

あらためてあたりを見回してみると、この東京国立博物館の敷地は意外にすごい空間です。
まず因州池田藩の江戸屋敷から移築された堅牢にして重厚な表門が残されている。そして入り口正面には、鉄筋コンクリート造の上に日本屋根を載せた典型的な〈帝冠様式〉の本館が威容を誇り、正面左手には1900年の皇太子(後の大正天皇)成婚を記念して建てられた〈ネオ・バロック様式〉が圧巻の表慶館、さらに正面右手には谷口吉生の父である谷口吉郎(日本のモダニズム建築の担い手のひとりであり、明治村の発案者でもある)が戦後に設計した東洋館がある。

こういうある意味特権的に〈日本的〉な場所の中で、谷口吉生の宝物館はいい意味で孤立していると言えるのか、それともそのような周囲の“景観”をかき乱すでもなくむしろひっそりとそこにおさまっていると言うべきか、見解の別れるところではあるでしょう。
日本ではモダニズム建築の形成さえいわゆる数寄屋建築の無装飾性や桂離宮なり神社建築なりの簡素さといったものの発見と平行してなされてきたのだから、モダニスティックであることと〈日本的〉であることは矛盾なく共存できるようになっているようにも思えます。
2001年の文学自ら補足/HCB ふくしま [Mail]
00/12/14 Thu. 11:28
ここは視覚・聴覚芸術プロパーのようなので改めて補足するのは申し訳ないんですが。

以下で列記したような批評家たちは文壇に対して相当の威圧力を持っている(影響力ではないとしても)のに、口を揃えて賞賛する作家古井由吉の『仮往生伝試文』だの『聖耳』だのをまともに市場に流通させていないのは「作家がいい作品を書かない」ということ以上の怠慢ではないか。それでいて「作品として読める批評を書く」だの「シェイクする」だのと息巻いてもしょうがないんじゃないの? と毒づきたくもなります。

アンリ・カルティエ=ブレッソンについて。僕は好きなのでまともなことは言えないと思いますが。

「複製技術時代の芸術」でベンヤミンは写真にかなりの比重をおいていて、アウラの凋落についても写真が範例的に挙げられていたと思うんだけど、HCBは、僕が見る限り、アウラ凋落後のアウラとでも言うべきものを感じさせる最後の写真家のように思われる。写真が登場すると絵画は<現実>を模写するもの(たとえば肖像)としての特権的な地位を奪われ、<見方>そのものを批判的に扱うような(メタ表象的な?)作品が現われ始める。ここで、絵画/写真にビアズリーのdepiction/portrayingの区分を当てはめることもいちおう可能だと思うけど、たとえばジョアン・フォンクベルタのような、写真が現実に忠実だというドクサを逆手に取った虚構的な写真(火星に生物がいたり、打ち上げられなかったスプートニクが打ち上げられていたりする写真)も現われて、写真も必ずしも固定的にportrayingの機能を持つわけではないこと教えてくれている(まあそれ以前にも写真の修正なんていくらでもあったわけだし、フォトショップみたいなものが普及している今ではそんなドクサもないのだろうけど)。HCBは、まだ生きているけど、portrayingの機能を担うものとしての写真の領域に留まって、その可能性を極限まで押し進めた人なんじゃないかと思う。彼の写真は単に偶然がもたらしたものにすぎないように見える。彼は「一瞬が永遠と出会う」という言い方をするけど、この言葉はベンヤミンのモチーフをうまくパラフレーズしていると言えるだろう。複製可能になることによって「今ここ」に特化されたアウラは凋落する。しかし、無限の反復可能性こそがプラトン的イデア的なアウラを遡行的に見出させる、という事態それ自体を、HCBの写真は明らかにしている、と言えるのではないでしょうか。
Re: 2001年の文学自ら補足 rino
00/12/14 Thu. 13:20
> ここは視覚・聴覚芸術プロパーのようなので改めて補足するのは申し訳ないんですが。

いや、全くそんなことはなくて、むしろそういう“棲み分け”をくずしたいと思ってこのサイトはやっているので、どんどん書き込んで下さい。(ほかの人も。)
文学に強い人もほしいんだよ。

> 市場に流通させていないのは「作家がいい作品を書かない」ということ以上の怠慢ではないか。

そうだけど、本屋に置いていないのまではしかたないんじゃないだろうか。
東浩紀は自分の公演をCD-ROMに収録して通販しようとしているし、ドラゴンはメールマガジンを6万部も発行しているし、そういう具合に作家だって流通させようとしている人はそれなりに営業努力をしていると思うけど、そういうこととは違うんでしょうか。